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公益社団法人日本山岳会

随想:笠置山、二上山を歩く (2019.11.18~20)

  令和元年霜月 

                                      日本山岳会 12196

                                       九五会 石岡 慎介

はじめに~:

秋高気爽に恵まれた歴史探索の山旅であった。終始高揚感を漂わせていたが、照る山もみじの余韻が続き、令和元年が有終の美を飾ろうとしている。人間がこころの奥に痛みの記憶を畳み込むように、大地も哀しく、苦悩の歴史や災厄の傷痕を刻んでいるのだと知れるよう山門を敲く心象であった。

96代後醍醐天皇(1288~1339)が30日程行在所とされた京都南山城の古刹笠置寺が旅の軸であるが、後半の二上山と共に古代、中世のご皇室にゆかしい霊山に分け入る機会を頂いた。縄文弥生から飛鳥、中世、明治維新を経て、大東亜戦役までどんなに有為転変しても、山々の移ろいは超自然、人々は悠久にして、霊験あらたかな山岳自然をその時々の友柄としているのだ。

笠置町は人口1300人ほどの過疎地と聞くが、京都から車で直線2時間以内、50㌔の最南端の山峡地域に位置している。出発前のネット情報『石の町』のキャッチコピーが何か暗示し、永平寺住職の『石徳五訓』の箴言が想起された。

さて、歴史上、古代万葉歌人の国造りは80年と短かったが、公家和歌政治となると平安390年、跋扈始めた武家政権の鎌倉150年と歴史はうねり、寺社派閥のややこしい後継争いに由来する南北朝は60年弱、そして金満金閣の室町といえば230年強と3英傑登壇前を今また学び直す旅といえる。諸行無常の時の流れを、人々はどのように歩んだのか人文社会の視座で観ると、山岳文化探勝が遥か彼方にタイムスリップし現代に照らされて、山歩きを豊かにするものだ。

伊賀上野 白鳳城

電車内で

・創設4半世紀に近い「九五会」同期同好の仲間にとっても、二泊3日2万㍍強を4万歩で踏破するほどの密度濃い歩程となり、山人生の思い出に深く刻まれたのではないだろうか。リーダーの小林義亮会員は入念に企画されご案内頂いたが、笠置寺御親族として“何でも聞いてください”のご配慮には深謝であった。

・まず関東組の交通・歩程・(訪問要所)を要約すると:

11月18日 東京駅➡新幹線➡名古屋➡関西本線➡近鉄➡伊賀上野駅(忍者館、白鳳城)➡関西本線➡笠置駅➡送迎車        笠置寺松本亭泊 

11月19日 (笠置寺)探勝➡ 県境越え歩行➡(柳生の里芳徳寺、家老屋敷)➡バス➡奈良➡(奈良公園)➡奈良駅         奈良日航ホテル泊

11月20日  近鉄奈良駅➡当麻寺駅➡当麻寺登山口➡二上山女岳、雄岳大津皇子墓参➡二上山駅➡大坂阿倍野➡新大阪駅➡解散式

紀行地の心象を順次綴ってみることにしたい:

・近畿のローカル線に乗り換えると鄙の田園は鈴鹿山地であった。伊賀鉄道は忍者化粧の車両でこの国では幼児の客寄せ変装、異国のいい大人の手裏剣遊びとか人気があるという。忍者館の英語パンフによれば、戦を情報合戦ととらえ、敵陣忍びの術、暗殺含む諜報工作が主要任務とあるので、山旅の幕開けは闇の世界からである。家康の影の功労者服部半蔵は皇居半蔵門として不滅の名跡を残す。

・伊賀上野の光の世界なら、天につながるような白鳳城が待っていた。石の心を読んで積み上げるとは大廈高楼の基礎造りをいうが、高虎の寸分狂いのないような30㍍の高石垣は優美な技であった。清正と並び称される7城構築の名手藤堂高虎が400年前の慶長年間に築城にかかったが、途中破損し昭和10年に地元篤志により再建されたとある。城内は戦の血しぶき,硝煙のなまなましい展示品満載で武具甲冑、血のりの首級袋など見ると武士階級に死傷者は各段少なく、強制動員された善良農民の犠牲者は相当な数だったようである。今次大東亜戦役でも兵士は虫けら同然、武士階級将校は殆ど生還しており、戦国の世から近代戦までこの国の悪しき因襲戦勲といえる。高虎は戦国から江戸初期まで長生きして74歳で帰天するが、長子への多くの遺言には興味あったので、一行のみ加筆すると“仁義礼智信を大切に、人の意見はよく聞け、友と語り合いながら意見してもらえ“とある。浅井長政から徳川家光まで7主君に仕え、徳川外様の出世頭に昇るほどの世渡り名人だったようだ。

更に南下、時に暴れ川の木津川を削る渓谷美に沿ってローカル線はトロトロ走るが、伊賀盆地を生き抜く農民の田園風景にはこころ安らぐ。

・初日宿泊は創業130年とか笠置寺門前にある「松本亭」、古色風流な山荘庭園で年輪重ねたもみじが頭上に、足下にはツワブキの黄色、ピンク洋物インパチェンスが映えていた。久し振りに豪華な宴席となり、古代から貴族階級の鳥料理に欠かせないキジ鍋一本のみであった。締めは蕎麦とキジ雑炊で腹一杯となった。

    笠置寺

・翌朝冷涼な山気の中、笠置山(標高288㍍)の歴史伝承につながる寺社を巡る。

案内された笠置寺では、住職さんのきめ細かな展示紹介に目が走るが、山友ガイドの縁起解説にも熱がこもる。要約すると:

まずこの国の4大政治改革として大化の改新、忠孝建武の新政、倒幕・明治のご維新、大東亜の野望・大敗して民主戦後となる大河の流れとして捉えていた。万世一系のご親政権威と武家権力、軍閥との相克でもあるが、124代昭和天皇のご苦労は筆舌に尽くせなったようである。

・笠置寺史跡名勝は、弥生から昭和15年紀元2600年の国旗掲揚搭が示す日本最隆盛期まで俯瞰できる境内であった。縄文人は木津川沿岸で、弥生狩猟の民は巨岩奇石が座す山奥に、神聖を観たであろうことは容易に想像する。圧倒される景観であった。朝鮮渡来人によって岩壁面に彫刻されたらしい弥勒菩薩の大摩崖仏は尊崇を得て、貴賤の別なく隆盛を極めたようである。6世紀の飛鳥時代百済仏教伝来により、その200年後には奈良盆地に平地建立された東大寺大仏殿がこの国のこころの支柱になるのは時の流れであろう。高僧の尽力で笠置寺は修行場として、奥の院と位置付けられたようで、 平安遷都前すでに山岳自然への畏れから祈りへと神秘性が賦与されたようであった。

平安期爛熟になれば、現代にも似て摂関家が幅をきかせ藤原一強となったのは周知だが、天災地変が末法の世の流れを増幅させていたので、菩薩さまにおすがりして、こころの平和平安を得る浄土信仰につながる神仏習合は“神は父、仏は母”の修行と祈りの笠置寺に集約されていったのはよく理解した。

元弘元年690年前笠置山の戦をはじめ、勤王武士団に助けられ三種の神器奉じて何度か挙兵された天皇様も幕府武の力には多勢に無勢,笠置山への逃避行は春日大社、興福寺出自の解脱上人貞慶高僧の導きもあったであろうが、救いと安らぎの時は得られず失意の底に追い込まれてゆく。30歳で即位され、約20年ご親政によりこの世に平和をどう打ち立てるのか理想執念は瓦解する。鎌倉から南北朝時代の激動の端境期、さぞ懊悩深き人生であったであろう。こうして頼朝を宗主とする鎌倉幕府は、終局武士団同志の争乱として決着滅亡し、天皇さま直接のご統治の意味は、どのように評価されるのか研究者の領域である。

後醍醐天皇の歌

木津川を望む

境内は黙々として山岳庭園に趣を添えるような巨石群が散在し、木津川には150~160年前の江戸安政期を中心に多発地震により崩落した岩石類が容赦ない自然現象を物語っていた。小林リーダーは何度も後醍醐天皇の側近貞慶上人に触れられたが、「方丈記」に匹敵するとか「愚迷発心集」は必読の書であると帰郷後感じた。笠置修行場の戒律は厳しかったようで、日常生活で意識しても、しなくても多くの罪を犯す人間である以上、観世音菩薩に懺悔し、赦しを請う法要は、キリスト教の“おもいと、ことばと、おこないと、おこたりの罪”の告解にも近い「自分は何者?」の自己凝視の場と捉えられた。

・こうして朝の歴史探勝を清々しく終え、東海自然歩道に入る。目指すは奈良盆地の柳生の里。柳生菩提寺芳徳寺などである。柳生と言えば、殺人剣の極致の新陰流でTV映画をにぎわすが、徳川治世の平穏無事の世になるにつれて武力から諜報知力が必要条件に代わっていたとすれば、柳生全盛期も時代の要請にどう変転していったのか。柳生一族の墓標には何か重苦しさが漂う。昔から柳生の殺人ならぬ、活人剣の教えもよく知られる。自分の考えに捉われず、相手の力、動きをどのように引き出すかの人の活用術とか“きのうの我に今日は勝つべし”とか自己鍛錬の糧となったようで「真実の人」を目指す教義にやわら変遷してゆく。そういえば山岳会初代会長の小島烏水翁(在位1931~1934)に同じような”柳生流の思念を奉じるような詩文『山を讃する文』がある。

“昨日の我は今日の我にあらず 今日の我は恐らく明日の我にあらざらむ

而してこれ向上の我なり いよいよ向上して我を忘れ 程を遂いて自然に帰る“

柳生の里への道

瓦屋根

・剣豪一族の里に別れをつげ、奈良市内にもどると、泊処は古色蒼然とした山荘から豪華絢爛なホテルへと一変。最終歩程は一挙に古代飛鳥の御代に遡って、由緒ある浄土庭園当麻寺は省いて二上山登山口に直行する。このお山は大阪・奈良にまたがる双耳峰とは名はいかめしいが、親しみがあるハイキング山である。俳人黛氏と作曲千住氏によるオペラまで創作されている皇統争いの縮図となったお山であり、飛鳥人が山の端に落ちる夕日を見ては西方浄土を夢見るお山に敗者たる悲劇の皇子の魂が山に還るのである。

       二上山

古代日本最大の内乱であり、結果的には38代天智天皇(在位668~672)と40代天武天皇(在位673~686)の即位に至る事変をめぐるもので、血が繋がる親子継承なのか兄弟間禅譲なのか天孫存在に係る時代なのであった。天智天皇の長子大津の皇子は39代弘文天皇(在位672年1月9日~672年8月21日)として後年名誉を回復され、二上山雄岳に祀られ安住の地を得た。土盛り樹霊の中にたたずむ墳墓に永遠の命を偲ぶ。

天武天皇死後、謀反の疑惑をかけられ、自害された24歳貴公子の覚悟の和歌が万葉集にある。

”磐余(いわれ)の池で鳴いている鴨たちの声を聴くのも

今日限りだろうか、私はもう死が待っている身なのだ“

皇子の最後を悼む姉君の御歌も名高いが、二上山を擬人化しているのだろう。

“この世の人である私は、明日から二上山を弟の代わりとみて偲ぶでしょう”

・偶々、お山には中高年夫婦づれや幼稚園生まで大挙押しかけ、引率者に叱咤されながらも、ヨチヨチぺんぎん組は、遥か未来のこの国を背負っているようだった。

・令和元年の締めとして、自分たちの足と目と心で確かめながら“もう一度古き日本をひもとくような山旅”であった。多くの日本人のこころに生きて居られる天皇家とその未来像は、女性天皇も含め考え、異国出兵など論外、戦乱なき大義の民主主義こそ問われる現代を迎えている。現代の「力こそ正義」の政治権力の潮流にあらがえるのか、悲哀に満ちた古代壬申の乱、鎌倉末期笠置山の乱に何か凝縮されている天皇史であった。修行寺社は全山焼失殺戮の修羅場だったろうが、リーダーは人間の業をあがなう情念を秘めるような語り部であった、おわりに~:

・帰郷後、後醍醐天皇様の何か十字架を背負ったような人間像は強く脳裏に刻まれた。底流の気づきとして、天皇様が笠置山で詠まれた紅葉に続き、吉野仮御所の櫻、流刑地隠岐の絶唱につながる御歌は大自然にこころ寄せ、安住の地を求める流転の人生模様そのものではないだろうかという自問がある。 憂かりける、かりそめの宿、限りある命、行く末の空など漂泊三首には底流に無常の力を感受させられた。実人生で人が抱く野望や執着というものには限界があり、古来日本人が詩歌に託した暗喩にこそ、こころの謎が潜んでいるのかもしれない。今を生き抜く人にも心響くであろう。

“うかりける 身を秋風に さそわれて 思わぬ山の 紅葉おぞみる”(笠置山)

“ここにても 雲井の櫻さきにけり ただかりそめの宿と思ふに”  (吉野)

“命あれば こやの軒ばの 月も見つ 又いかならん 行く末の空” (隠岐)

・翻って登山同好の士、126代徳仁今上天皇様(日本山岳会会員番号10001)に於かれては、偏に国家安泰、平安立命を祈念され、ご一緒に令和元年を讃え、お迎えできた慶びの時節柄の只今である。

折しも、本年11月27日天皇皇后さまは、橿原神宮の神武天皇稜に参拝されご即位を報告された。市民の心は一緒の空気を吸う悦びに溢れていた。西暦2020年、令和2年には神武天皇ご即位から数えて皇紀2680年の輝かしい国体招来となる。

歴史上、神話の世界が自然と、なめらかに繋がっている現代にボ~とばかり生きてはいけないと思うのである。                           

                                                        完

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