自己紹介
北原 孝浩(会員番号:14065)
山との出会い・友との絆
八ヶ岳南麓の山梨県旧北巨摩郡大泉村に移り住んで5年が経過しようとしている。村は平成の大合併で8町村が合併して、現在は北杜市になっている。「八ヶ岳おろし」と呼ばれる突風が秋から春にかけて猛烈に吹き荒れることが多く、防風林が一定間隔をおいてあちこちに植林してある。我が家は標高1000mのその一角に位置している。周囲の山々を眺めながらの暮らしで、来し方を思い出すことも多い。
過ぎし日々を振りかえって
太平洋戦争開戦直前生まれの私であるが、戦禍が首都に及ぶに至り家族は止む無く疎開をした。疎開先は山国、小川で遊んでいる時に機銃掃射を受けた恐怖はいまだにはっきりと記憶に残っている。やがて敗戦を迎え、2年後には小学生となった。下校途中では昆虫等と戯れ、友と木に登り、桑などの木の実を採っては食べ、それがバレないように何食わぬ顔で帰宅するのであるが、母や伯母には見抜かれてたびたび叱られた。しかし、そんな山国での生活にあきることはなかった。いつしか近くの山に登るようになりこれが結構楽しかった。中学校では授業の一環として登山があり、私は疲れた級友の荷物を背負って登ることがあった。また、バスケットボールのキャプテンとして県大会まで出場した。高校ではバスケット部からしつこく勧誘があったがそれを断り、山に打ち込むことになった。
高校のクラスメートの田村君(現JACの古参会員、大学進学と同時に入会)の影響で登山に傾注し、身体に山が住み込んでしまったと思うほど次第に登山にのめりこんだ。大学では体育会の山岳部に入ろうと扉を2~3度たたいたが、部室の張り紙やスローガンなどに怖気づいたというか、敷居が高いと感じて入部を断念した。そして、山が好きだという学友と登山三昧で青春を謳歌した。授業料2年分にも相当するカメラを入学祝に買ってもらう傍ら、クラス担任の当時は講師でその後著名な学者になられた先生に懇願して月賦の保証人になっていただき、高価な真新しいシャルレのピッケルを手に入れて小躍りした。先生からは「こんな依頼を受け、引受けてしまったのは後にも先にもなかった」といまだに言われている。学生なので山へは平日に入ることが多く、その間ダイヘン(代返)を頼んだ石積君は何度もきわどい目にあったと大分後になって聞き、まったく申し訳ないことをしたと反省したがもう手遅れである。この石積君とはスキーを楽しんでは来たが、数年前から突発性登山病発熱症候群なるものを患ったか、時々彼から山行に誘われるという珍しい現象が起きている。成績は授業出席日数など勉強時間に反比例して、われながら感心する成績で卒業できたのは不思議に思う。登る山ならぬ試験の山がドンぴしゃり的中したからなのだろうか・・・。学生時代から現在に至るまで登山を共にしている吉宗君は、当時、大銀行に就職が決まっていたが、履修する者が少ない第二外国語を選択したため、試験前にタイムリーにノートを借りられず3年まで単位が取れていなかった。傍から見てもハラハラドキドキしたが、留年なしで一緒に卒業できて嬉しかった。
私の登山は一極集中的な登りが多く、穂高岳、剣岳と北岳が中心で他の山域にはあまり入っていない。結婚前年の冬の北岳単独行を最後に厳冬期の危険な登山からは足は次第に遠のいた。結婚、そして子供の誕生、転勤・・・次第に軸足どころか両足を仕事に移さざるを得なくなり、やがて登山らしい登山からは遠ざかり、いつしか週末は専ら仕事の延長でゴルフが登山にとって替わってしまった。
亡き友を想う
あまり人に憚ることなく登山ができるようになったころには、大勢いた岳友も体力がなくなったとか体調不良とかの理由で一人、二人、三人・・次々と登山から遠ざかって行き、この上なく淋しい。登山を継続している現役は自分を含めて今や数人という有体である。そして親しい岳友が何人か鬼籍に入る悲しいこともおこった。ご冥福をお祈りして許しを請うて、簡単に触れてみたい。
穂高に一緒に通いつめた豊田君は不治の病におかされて5年前に還らぬ人となってしまった。彼との登山は残雪期の西穂高岳が最後になった。快復したら涸沢に出かけ穂高のあの懐で数日をゆっくりと過ごそうと約束していた。彼は当意即妙な言い回しに長け、山で緊迫・困却した状況下にあったとき、タイミングよく軽妙な言葉をかけてくれ精神的に幾度となく周りの者が救われた。その彼の野辺送りの日に、病床に伏せていた小室君は奥さんの肩に掴まって参列したのだが、そのちょうど1ヶ月後に彼の後を追うように亡くなってしまった。
前穂高岳北尾根を一緒に登攀した江崎君は8年前に脳梗塞で倒れ、一度はかなり快復したが、昨年冬に彼も還らぬ人になってしまった。彼との山行は早春の蝶ヶ岳が最後であった。彼は大学入学早々に我が家に泊まった友で、まだらボケになってしまった94歳になる私の母が彼のことを今でも覚えていて話題になることがある。彼とはクラシック音楽の趣味も共通で、病状が一時良くなった時に東京文化会館での音楽会に誘われたが、あいにくその日は登山の予定がはいっていたので私はうかつにも断ってしまったのを今更ながらとても悔やんでいる。彼に何かを頼んだときに断られたことがないのに・・・。彼の家族は皆信仰心が厚く、彼は山でも一人テントから出て寒い中ご来光に一心不乱に手を合わせ拝んでいた姿を今でも鮮明に覚えている。
また、若い時のことではあるが、富士山の雪崩で亡くなった杉村君、まだ19歳の若さであった。他人の言うことをじっくりと聞いて的確な意見を言ってくれる友であった。彼は山岳部に入ったが、入部に迷いためらう私に「登山は山岳部がすべてではない、いろいろな登り方があるのでは・・・自分が納得できる登山をすれば・・・」という大変に大人びた内容のことを穏やかな口調で言ってくれた。不運にも昭和35年11月富士山で大雪崩に遭うようなことがなければ彼はひょっとしたらあのK2(1981年8月早大隊が登攀、西稜からは初登)の頂に立っていたかもしれないと思う。
ここ数年間は写真を撮ることを主眼の気ままな単独行の山行が多くなった。そうした時にはなぜか亡き友のことを想いながら登ることも多い。またカメラを構えシャッターチャンスを待つ間に想いだすことも幾度となくある。
山暮らしの今
周囲を山に囲まれた我が家からは南西に北岳や鳳凰三山が、そして西に甲斐駒ケ岳、鋸岳などの南アルプス北部の山々が望まれる。北東には金峰山とそれに続く山並み、そして八ヶ岳や茅ヶ岳も指呼の間に望むことができる。
四季折々それぞれの良さがあるが、とくに気に入っているのは一面白銀の厳冬期から春、初夏にかけての時季である。
厳冬期は来る日も来る日も真冬日で、肌を刺すような凛とした空気に心身ともに引き締まる。晴れていても雪花が舞う。見通しの良いときには北岳の稜線や赤岳の頂から雪煙が舞うのが見える。3月も終わるころになると庭にフキノトウが頭をもたげ、やがて雪柳や連翹が花をつけ、辛夷、桜桃などが静かに開花し始める。それに続き楓、桂、ナナカマド、白樺、マロニエ、朴などの樹々が芽吹く。この頃、タラの芽、コシアブラ、山椒の芽、コゴミなど庭の山菜を童心に帰って喜び勇んで採る。隣地との境界近くには樹齢80年くらいの桜の大木があるが、4月も終わりごろになって漸く開花する。この桜、散り際になぜか薄いピンク色に染まる。地中の凍土もすっかり融けて宿根草が次から次へと開花する。5月も半ばになると白や薄いピンクのモンタナが芳しい香りを放って咲き、6月になるとオールドローズ等のバラがようやく咲き始める。見渡す高峰も残雪期の装いになり、春と夏がほぼ同時に訪れる山の短い夏の序奏の季節となる。
積み残したこと、そして夢に向かって
がむしゃらに登山をするような歳は遠い過去のものになりつつあり、歳を重ねるとともに積み残したことなどをなるべく早くやり遂げようと心がけている昨今である。
運良く健康で長生きができれば、喜寿まで登山を続け、その誕生日に富士山に登ることだ。そして山を中心とした写真集を出すことができたなら・・・。
また、いくつかの国内登山をしたい。もう一度登ってみたい山、初挑戦やリベンジのものなどがある。①南アルプス最南部、茶臼岳や光岳等(聖岳までしか行っていない)へ。 ②剣岳の長次郎谷を遡行し右股から剣岳北方稜線に出て、剣岳本峰、早月尾根経由馬場島へ下る(一昨年7月始に単独行くも豪雨で八峰および源次郎尾根からの雨水が雪渓上を激しく音を立てて流れ落ちるのに怖気づき長次郎谷中間部で退却した)。 ③猫又山や赤谷山から剣岳を展望する(従来は登山道がなく5~6月の残雪期に沢筋を登ることが一般的であったが、最近道らしき道ができた模様である。斜度がきつく渡渉などあるかなりハードな登山だ)。 ④剣岳三の窓雪渓を登りつめ三の窓にテントを張り、あのクレオパトラニードルやチンネ等をゆっくりと眺めながら数日間を過ごし、じっくり写真を撮りたい。 ⑤大雪山登山 ⑥利尻岳登山 など等だ。
これらのほか、本場アルプスの高い頂に立ってみたいと思う。ヒマラヤ名峰事典の編集者である友人の庄司君からはここ数年毎年ヨーロッパを中心に海外山行に誘われているが、前述の94歳の老母が入退院を繰り返している状況で、決断しかねている。この夢は私の体力にも関わっていることでもあり、夢のまた夢になるかもしない。
脚腰が弱り登山ができなくなった暁にはかつて夢中になった山を眺めながら、バッハやシューマンなどの好きな音楽を心静かに聴きたいと思う。北岳には三十数回いろいろなルートで頂に立っている。そんな北岳を眺めながら、遠い記憶の糸を手繰り苦しかったこと楽しかったことなどを思い出しながらの生活も良いだろう。今年はキタダケソウに会いに梅雨の時期に登るのを楽しみにしている。