記:石原達夫
期日 令和2年11月17日~19日
参加者 武田鞆子、河村光子、高橋聡、杉田和美、山田茂則、竹内晴美、下河辺史郎、石原達夫、横田昭夫、清登緑郎、吉永英明
17日
東海道新幹線ひかりは米原で下車、過去仕事の関係で米原で北陸本線で敦賀方面に乗りかえることは度々あったが、下車するのは初めてだと思う。北口は閑散としていて駅前広場の突き当りにレンタカー会社があった。マイクロバスをレンタルするが大型車なので運転できるのは高橋さんしかいない。以後3日間の運転をお願いすることになる。何だかんだ出発は11時半くらいになる。
最初の目的地は多賀大社である。この神社は旧官幣大社であり由緒ある神社である。建物は1930年築なので新しいが、三元社流つくりの檜皮葺なのでいかにも神々しい。祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊で、天照大神の両親に当たられる神なので伊勢参りの前にこの神社をお参りするというのが古来の習わしである。
もう昼も過ぎているので予定通り社前の蕎麦屋に入る。看板のそばを食べたが伸びきってしまいあまり旨くない。この後は太郎坊宮に向かう。2017年11月11日に社前の駐車場まで乗り入れたが突然の雨でその日の計画を中止し、昼食後、最終日だったのでそのまま帰ったことがある。
今回は晴れていてご神体の岩山、赤神山の全景が見え、8合目付近に太郎坊・阿賀神社本殿が見え、5合目右手には場違いの感があるきらびやかな近代建築の参集殿が見える。駐車場から鳥居をくぐり階段を上ると祈祷殿、さらに本格的な石段を登れば絵馬殿ここで左に行けば女坂、当然右の男坂をたどる、途中山頂への分岐を確認しさらに続く石段を行けば、数十メートルにも起立する夫婦岩の岩壁に突き当たる。そそり立つ岩の割れ目を抜ければ本殿に出る。まことに眺めのいいところである。先行グループはここから女坂を下るという。私ら下河辺、横田、山田、石原の4名は、本殿に一拝のあと来た男坂を下り、竜神舎から山頂に出る山道をたどる。箕作山に向かうコルに出て、左の赤神山の岩峰に向かう。赤神山の山頂は狭い露岩であり展望は極めて良好である。時間も押しているので、そこそこに下山する。なんと山頂下で高橋さんが登ってくるのに出会った。高橋さんはこれから山頂に行くとのこと。私らがのんびり下りと竜神舎に出て石段ゆっくりと下っていくと絵馬殿に着く前に高橋さんが追い付いてきた。大変な健脚である。本来なら今回は箕作山ハイキングコースで下山するところだが、今回は時間的に計画時から無理であった。みな集まったところで今日の宿に向かう。宿は大見八幡駅近くのグリーンホテル、夕食は付かず、外食となる。食事場所が駅前の飲み屋なので当然宴会となる。
11月18日
朝は以前に拝観したことのある長命寺で以前との違いは808段の石段を下から登るというものである。長命寺については2017年11月の記録に詳しく書いてあるので今回は省略する。ただ今回の目的は琵琶湖湖畔にそびえるは長命寺山に上り琵琶湖を眺めようということである。石段の下部は最近手入れをしていないようで荒れていて、段差も大きく登りにくい。やっと寺に登り着き丁寧にお寺に参拝した。ところが山に登る入り口が探してもわからない。寺の職員に聞いたところ、寺からの登山口はなく、駐車場を少し下がったところにあるということで確認に行った。するとわが車が下りてきて、みな乗車している。促しても誰も車から降りてこない。どうなっているのだろう?
結局長命寺山の登山はあきらめ、次の雪野山に向かう。
古墳歴史公園の駐車場に車を止め、登山口を探すが何か解らない。作業中の人に聞いてやっと登山口が分かった。先行の人たちはどんどん違う方向に歩く。なんと予定にない野寺城趾に上がってしまう。これは雪野山の対になった北峰山頂にあり、途中にあった説明文によれば織田氏以前の支配者であった六角氏の被官の城跡という。雪野山との鞍部に戻り、雪野山に向かう稜線の馬の背コース又は大岩コースというらしい登山路をたどる。馬の背は樹林のない小石の裸地であり低山の割にはきつい登りを強いられる。登り着いた頂上は平らで、なんと古墳の上部であるとか。説明の看板を見るとこれは6-7世紀の前方後円型の古墳で山頂が後円部、登り着いた辺りが前方部、後円部に竪穴式石室だという。こんなところに古墳があったのかと納得する。時間がないので一通りの見物を終えて一直線に麓に向かう下山路をとる。急降下で麓の見事な牛の置物のある天神社で皆を待ち、竜王寺の先の、駐車場に着く。昼食はこの近所の道の駅、竜王かがみの里 にある小奇麗な近江牛の店・岡喜で遅い昼食とする。この店は何とGoTo の地域共通クーポンが使えなかった。近江八幡駅に今日帰る清登さんを送る。車は琵琶湖大橋を渡り堅田に出て、おこと温泉に着く。今日の泊りは 雄琴ことゆう。日帰り温泉がうりの旅館である、中々高価そうな展示があるロビーがある。
11月19日
この宿でもらった地域共通クーポンはこの旅館の売店で使い切る。今日は登る山は計画されていない。ひたすら琵琶湖1週を目指すのみである。
まずは市営の新旭水鳥観察センターに行く、早いせいか建物は開いていない。ここからは湖は見にくいので建物から続くみずうみ沿いの道を歩く。すると林が切れて湖面が見えるところに出る。確かにたくさんのカモを主体にした鳥の群れが見える。湖の反対側は廃品業者のたてものらしきがあり、このあたりあまり人が訪れたような気配はない。朝早すぎたのではなく観察センターはもはや閉じてしまったようだ。
車をさらに北へ進めるとスキー場のあるマキノ高原を左に見て海津で国道を離れて半島状の地帯に入る。この先端、海津大崎にあるのが大崎寺で安土城の血天井で知られる。これは安土城が本能寺の変のあと明智光秀軍に攻められ、城にいた信長の家臣らが討ち死、あるいは自害した。そのとき残された血染めの床材を使って本堂の観音堂の天井を修繕したという。しかし遥か後年の昭和41年の観音堂大修理の折り、この血染めの天井板を小ぶりな阿弥陀堂を立てそこに移築した。現在は拝観の人も少ないとみえて、どうも現在の寺は無人のように見える。ここも取り残された観光スポットのようだ。半島を一周して付け根に当たる大浦に出て、今度は奥琵琶湖パークウエーに入る。新しい観光道路である。半島先端付近からは湖岸を離れ山を上がるようになると間もなく、つずら尾崎付近に出る。ここには鉄穴と呼ばれる古墳がある。このあたりには美しい紅葉が見られた。つずら尾崎はレストエリアとなっていて売店等もある。これを下ると塩津に出て国道に合する。左に以前訪れた賤ヶ岳が見えやがて道の駅・湖北水鳥ステーションに着くここで昼食をとる。もう時間も少なくなったので鉄砲(火縄銃)で有名な国友だけ見ることになる。国友は戦国時代から江戸時代末期まで堺、根来と並び各種火縄銃の生産地であった。資料館には細筒、士筒(軍用銃)、大筒まで多数陳列されている。付近には鉄砲鍛冶の旧宅を示す碑がたっている。
これより米原駅に戻り、レンタカーを返し解散となる。高橋さん3日間の運転、お疲れ様でした。
後記 今回はコロナ第3次が立ち上がりつつあるときに決行された。当然のことながら感染予防ための諸藷注意事項の徹底はなされるべきだが必ずしも完全ではなかった。登山届書には石原がリーダーとなっているが、私はこの企画立案には関与していないし、地理的にも詳しくない。宿でも会計事項でも私の立ち入る隙間は全くなかった。それ以上に参加者は私がリーダーとは思っていないようであった。初日の昼からすでに物見遊山の様子を帯び、夕食は場所が飲み屋であっただけに初めからタガが外れた状況であった。
計画の中で昼食はすべて外食としたため時間の配分は難しかった。やはり昼食は携帯とすべきであった。車の運転は大型車だけに高橋さんにまかせっきりとなってしまったが、高橋さんは安全運転に徹し、そうとうお疲れになったと思う。今後は運転者の負担を軽くするよう考えなければならない。
まことに申し訳ないが少々反省事項を申し述べさせてもらった。