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公益社団法人日本山岳会

ミヤマキリシマを愛でた山旅

森 武昭

 4月2日に「山想クラブ」のメーリングリストを通じて、「久住山ミヤマキリシマ探訪」の案内をいただいた。新型コロナウイルスの感染が拡大する状況で若干躊躇する気持ちもあったが、かねてからの念願であったミヤマキリシマが咲き誇る時期の山行である上に企画・案内が岳兄の関口興洋会員(私は縁あって北九州支部の会友にしていただき、毎年10月に開催される支部主催の槙有恒碑前祭に参加し、関口さんはじめ支部会員の皆様と交流を重ねている)とのことなので、直ちに参加を申し込むと同時に往復の航空券を予約した。
 コロナ感染が一向に収まる気配がない中での実施となった。また、直前になって関口さんが家庭の事情で参加することが出来なくなり、首都圏在住の5名での山行となった。
 6月8日(火)9時ころには、高橋聰、吉永英明、下河辺史郎、山田茂則の各氏と私は羽田空港の熊本行き搭乗口に集合した。平均年齢77.4歳の高齢者集団である。飛行機は定刻通りの運航で、お昼前に熊本空港に着いた。ここでレンタカーの手続きを行い、12時20分に出発した。約1時間走って、阿蘇火山博物館に到着。遅い昼食を摂った後に博物館を見学した。ホームページに記された施設の概要は、以下の通り。

 生きている阿蘇を体験!Experiencing the alive Aso!

阿蘇山は日本を代表する活火山です。風向きによって火口周辺の立ち入り規制が敷かれたり、天候によって火口見学が出来ない場合がありますが、当館では中岳火口壁に2台のカメラを設置し、火口の状況がリアルタイムで観察できる火口ワイドスクリーンがあります。火口の音も同時に聞ける事から臨場感あふれる火口見学が楽しめます。また、当館の常設展示では阿蘇火山の成り立ちや地形・地質、日本や世界の火山、中岳の火山活動、草原と人々の関わりや動植物などの展示があり、3階の五面マルチホールでは阿蘇の火山や人々のくらしに関する映画を鑑賞することができます。

小さな噴煙を上げる阿蘇中岳

 博物館から中岳の噴煙は良く見えたが余り活発には見えなかった。火山警戒レベルは5段階中レベル2で火口から2km以内は立ち入り禁止であった。車で博物館からさらに奥に約2km進んだが、そこからは立ち入ることは出来ず引き返した。帰京後に知ったことであるが、我々が訪ねた翌日の9日11時から警戒レベルが1に引き下げられ、火口1kmまで近づけるとのことで、残念なことをした。
 この引き返し点を15時に出発し、途中で明日・明後日の昼食を購入し、本日の宿泊地である大分県九重町の法華院温泉別館「花山酔」に直行し、16時20分に到着した。温泉を楽しんだ後、18時からレストランで感染防止に留意しながらの懇親会で明日からの山行などについて語り合った。
 6月9日(水)は、宿の車で牧ノ戸峠まで送っていただいた。天候は雲一つない晴天である。峠の広い駐車場は満杯で早朝の5時頃から入山者があるそうで、国道の路側帯にも多くの車が駐車していた。8時20分に歩き始めるが、沓掛山への急登は人で溢れているのには大変驚かされた。我々の一行は体力差が大きいため、登山道も迷うようなところもないし、天気も崩れる心配もないので、各自のペースで歩くことにし、お昼に久住分かれで顔を合わせることにした。沓掛山を越えてしばらく行くと、待望のミヤマキリシマの群生が見えてきた。9時35分に扇ヶ鼻分岐に着いた。ここで、関口さんの計画書で扇ヶ鼻へ往復(約40分)することになっている理由が良く分かった。扇ヶ鼻は一面のミヤマキリシマで、話には聞いていたが「素晴らしい」の一語であることを実感した。地元の人の話ではまだ若干早く1週間後ぐらいが最高になるだろうとのことであった。

久住山を背景にした一行

扇ヶ鼻分岐に戻って一休みした後に約30分強歩いて久住分かれに着いた。ここで早目の昼食を摂り、荷物をデポして久住山へ出かけることにした。途中で中岳との分岐がある。中岳は、標高1791mで、久住山の1787mより4m高く、九州本土の最高峰である。本来であれば、メインとなるべき山とも言えるが、日本百名山から漏れたせいか、余り多くの登山者がいかない不遇の山となっている。久住分かれから30分強で久住山の頂に立つことができた。はるか遠くに由布岳の特徴ある山容が良く見えた。また、北東方面には明日登る山々を眺めることができた。ここでも大勢の登山者で賑わっていたので早々に下山を開始した。久住分かれに戻ると後続の仲間も着いていて、綺麗に改造された避難小屋で、全員揃って休憩し、久住山をバックに記念撮影をした。

ここから、法華温泉までは基本的に下りなので楽かと思いきや、ガレ場で足元が悪く、高齢者には負担が大きかった。そういえば、久住分かれまでは登山者が多かったが、この下り方面に行く人はほんのわずかであった。下りきったところで、後続組をしばし待ち、無事降りてきたことを確認し、この先の平坦な歩きやすい道を20分ぐらい進むと、再び道が悪くなり、疲れた足を我慢して200m下ると、前方に坊ガツルの湿地帯とテント場が見えてホットする。そこから5分も歩を進めると法華院山荘に到着した。後続組を待つ間に飲んだ生ビールの美味しかったこと、疲れがとれたような気がした。この山荘は、坊ガツル賛歌で有名になった山荘である。この歌は、故人となったが日本山岳会の大先輩である松本征夫会員(2007年度秩父宮記念山岳賞受賞者)と梅木秀徳会員(元東九州支部長)らがこのすぐ近くにあり、この山荘が管理している「あせび小屋」の小屋番をしているときに、ここの湿原の素晴らしさに想いをよせて作詞したそうである。この山荘の紹介文は以下の通りである。

法華院温泉:この温泉は、標高1303mの九州では最も高い所に湧き出る温泉として知られ、泉質は単純硫化水素泉で動脈硬化症や高血圧症などに効くといわれています。ここは、約500年前に天台宗の修験場として九重山法華院白水寺が設立され、修験僧の出入りでにぎわいを見たが、明治になると廃寺となり、本坊だけが残る由緒あるところです。現在は雄大なくじゅうの山々が望める山の温泉宿として、山男の疲れをいやす秘湯が人気をよんでいます。

さらに、山荘のホームページを見ると、その歴史が次のように記載されている。

法華院の歴史

この地に明和7(1770)年より伝わる「九重山記」によると、正中元(1324)年、人皇2代綏靖天皇を奉請して、12所大名神として祀ったのに始まり、文明2(1470)年、英彦山より養順法印が入山し、修験道場を建立、法華院白水寺と呼ばれるようになった。戦国時代に大友、島津の争いに巻きこまれ堂塔全てを焼失し、一時衰退をするが、11代目に勝光院豪尊という傑僧が出て、苦行の後、院を再興し、慶安2(1649)年、現存する十一面観音と不動明王と毘沙門天を安置した。江戸時代になり、竹田岡藩の祈願所として、武運長久、家内安全を祈願するとともに、国境の警備の任にもあたっていた。明治になって神仏分離となり、岡藩からの禄もなくなり、4つの支院は山を下り、弘蔵坊だけがこの地に止まった。明治15年に火災により、本坊及び支坊は皆焼失した。この頃には登山をする人も多くなってきたので、24代弘蔵孟夫が山宿を始めた。法華院温泉山荘の創業である。戦中、戦後も多くの登山者によって支えられ、弘蔵祐夫、岳久と受け継ぎ、宿としては、現在3代目、お寺としては26代目となる。

 我々は、関口さんの尽力により、明日登る山々が一望できる個室2部屋を与えられる幸運に恵まれた。到着後、温泉に浸かり一休みすると夕食になった。食堂に入ると、坊ガツル賛歌の木版画が目に入ってきた(写真左)。これは、私が懇意にしていただいている元北九州支部長の伊藤久次郎さんの作で、1番~9番までの歌詞が素晴らしい絵とともに彫られている。これがベースとなって、小屋の入口を出た右手に9枚の壁画が飾られていたのにはびっくりするとともに(写真中央)、愛称「伊藤Qちゃん」の実績に改めて敬意を表した次第である。
 6月10日(木)も好天に恵まれ、7時20分に小屋を出発し(写真右)、坊ガツルのキャンプ場に向かった。環境省と大分県が現地に設置した説明版には、以下のように書かれている。

坊ガツル賛歌の詩を記した木版画

写真3の木版画をベースにした壁画

法華院温泉を出発する一行

坊ガツル:坊ガツルは大船山、平治岳、三俣山、久住山などの山々に囲まれた標高1230mの盆地で、中央に筑後川の水源・鳴子川が南北に蛇行して流れる九州では珍しい高層湿原です。ここは、以前からくじゅう山群への登山基地としてキャンプ場があり、四季を通じて大勢のキャンパーが訪れる美しい景観と清水、温泉に恵まれた楽園です。昭和52年にNHKの「みんなのうた」によって紹介された「坊がつる賛歌」は、この美しい湿原に想いをよせた山男たちの歌です。

一面のミヤマキリシマ(北大船山付近で)

 キャンプ場を過ぎ平治岳への道を左に見て直進すると、やがて鬱蒼として薄暗い急登となる。両側が抉られた登り道が延々と続くが、カッコウなどの鳥の鳴き声に励まされながら1時間近く歩くと視界が徐々に開け、ミヤマキリシマが現れた。さらに30分近く登って行くと、段原の分岐点に達した。ここで10分程休憩し、南方向へ向きをとる。避難小屋を左にみて平坦な道を5分進むと再び登りとなる。15分も登っただろうか、大船山(たいせんざん)の頂に着いた。西方向には昨日登った久住山、北方向にはこれから行く北大船山越しに平治岳が望める。こちらは一面にミヤマキリシマが咲き誇っている。ここで早目の昼食をとり、10時10分に下山開始。15分で段原に到着。ここからが本日のハイライトなのでカメラを手元に歩き始める。一面のミヤマキリシマである(写真左)。記念撮影をしながら、天井の楽園を楽しむ(写真7)。濃い紫あり、淡いピンクあり、よく見ると様々な色彩をしている。本州で見るつつじとは異なり、花は随分と小ぶりである(写真8)。この木は丈夫なのか枝が登山道に張り出していて体に当たると思わず悲鳴を上げそうになる。ところで、ミヤマキリシマのスケールに圧倒されてしまうが、足元を良く見ると、スミレ、ニガナ、コケモモ(私は花の名前に疎いため正確には分かりませんが)がひっそりと咲いている。まさに不遇の高山植物といった感じである。ここで、偶然にもオオヤマレンゲの白い花を見ることができたのは幸運であった(写真9)。楽園の山歩きを十分に堪能すると、登山道は平坦から急激な下りとなる。慎重に下っていくと、道は次第に荒れて厳しくなっていく上に滑りやいので苦労させられる。まさに天国から地獄といった感である。標準タイムの1.5倍ぐらいを要して、やっとの思いで大戸越(うとんごし)に到着した。正面にこれから登る平治岳(ひいじだけ)が聳えているが、地図に示されている30分で登れるとは思えない(写真10)。しかし、一休みして登り始めてみると、急ではあるが足元はそれほど悪くなく(下りは大変かもしれないが、ここは登り専用になっている)、20分程で登りきると頂上は右手のはるか先であった。しかし、ここからはなだらかで、最後に少しきつい登りがあるが10分程で頂上に着いた。頂上からはどの方向も一面のミヤマキリシマであった。この花は腰程度の高さなので、腰掛けて花を眺めながら休むには適当な場所が無く、立ったままでの栄養補給である。この山は比較的簡単に登れるせいか、平日にもかかわらずハイシーズンのせいか大勢の人で賑やかである。中高年だけでなく若い人も多かった。しばし景観を楽しんで下った。途中からは急な下りを予想していたが、一方通行になっていて下り専用は迂回路みたいになっていて快適に歩くことができ、頂上から25分で大戸越に引き返した。ここで、後続組を待って合流し、ゆっくりとしたペースで緩い下りを進み、1時間で坊ガツルキャンプ場に着いた。ここからは平坦な道となり程無く法華院山荘に戻った。時計を見ると、予定時刻の15時丁度であった。今日の山行の余韻に浸りながら生ビールで乾杯した。このような山の中で温泉に浸かることが出来るのは本当に贅沢で、今日の疲れを癒してくれるようである。

群生するミヤマキリシマの中を歩く下河辺さん(写真7)

濃い紫色のミヤマキリシマ(写真8)

登山道脇に咲いていたオオシマレンゲ(写真9)

ミヤマキリシマが咲き誇る平治岳(写真10)

 6月11日(金)は朝からガスがかかり、天気は下っていたがすぐに雨が降ることはないようで、予報では午後から小雨となっている。早くから目が覚めるも朝食は6時30分からなので、皆で他愛のない話で過ごす。朝食後、身支度を整え、7時15分に小屋のスタッフにお礼の挨拶を済ませて出発する。坊ガツルを歩く。ここは高層湿地帯であるが、ここしばらく雨が降っていないせいか干上がっているように見受けられた。ここに環境省が設置した説明版には以下のように記されていた。

ラムサール条約湿地くじゅう坊ガツル・タデ原湿原

登録年月日:平成17年11月8日

面積:91ha坊ガツル湿原(竹田市)53haタデ原湿原(九重町)38ha

湿地の国際的重要性:山岳地域に形成された中間湿地として、国内最大級の規模を有し、多様な地質と地形を反映した植物分布となっており、我が国を代表する湿地である。これらの植生を維持していくため、毎年春季には、地元の人々によって、野焼きが行われている。火山の噴煙と草原、森林がおりなす美しい景観のなかで、植物観察・鑑賞・登山などに沢山の利用者が訪れている。

 湿原を右に見ながらしばらく歩いていくと二又に出た。小型車の通れる良い道は直進であるが、我々は左に折れて登山道に入る。ゆるやかな登り下りを繰り返すと、やがて視界が開け湿地帯に入ってきた。ここが雨ヶ池である。ベンチがあったので、しばし休憩し周囲の景色を楽しむ。ここにある環境省の設置した説明版には、次のように記載されていた。

雨ヶ池について:このあたりの窪地は湿地帯で雨が降ると池ができます。雨ヶ池はノハナショウブやヤマラッキョウの群生地となっており、周辺にも多くの貴重な植物が自生しています。貴重な植生を荒らさないように木道から楽しみましょう。

 ここから少々下って行くと、やがて再び湿原に出て、木道歩きになる。湿原越しに見える大きな建物に向かって歩いて行くと、これが長者原(ちょうじゃばる)のビジターセンターであった。館内を一回りして、「花山酔」へ向かう。10時丁度に到着。温泉を使わせていただき、着替えてさっぱりして一服しているところに後続組が到着した。彼らを迎えに外へ出るとポツリポツリと雨が降ってきた。我々一行が宿に着くのを待っていたかのようである。昼間は開いていない館内のレストランに伺うと飲み物だけならOKとのことで、生ビールとコーヒーで乾杯し、この山旅の終わりを祝した。霧雨の中、12時に花山酔を後にして帰途についた。途中、時間があったので、阿蘇の外輪山の一角にあってカルデラが一望できら大観峰に立ち寄った。余りのスケールの大きさに圧倒されてしまい、その場では具体的によく理解できなかったので、帰京後インターネットで調べてみると概略以下のようなことが記されていた。

阿蘇のカルデラ:南北25km、東西18kmで中心部に中央火口丘の阿蘇5山がある。このカルデラの大きさは、日本では2番目(1番目は屈斜路カルデル)であるが、内側に国道(57号)や鉄道(豊肥本線)が敷設されているのは世界的にも珍しい。しかも、カルデラ内には、5万人もの人々が火山と共に生活している。

 大観峰を出発し、所々に2016年4月に発生した熊本地震による被害の爪痕を見ながら復旧工事の進む阿蘇神社に立ち寄った。正面の重要文化財「楼門」は工事用パネルに覆われ内部を見ることは出来なかった。また復旧作業が終わっている神殿なども、残念ながら見学できなった。神社からはカーナビを頼りに熊本空港に向かった。空港近くのレンタカー会社で車を返却し、4日間の旅を終えて解散した。

 今回の「ミヤマキリシマを愛でた山旅」は、天候に恵まれ、スケールの大きいミヤマキリシマを堪能することができた。同行した山仲間と企画してくれた関口岳兄に感謝の意を表して筆を置くことにする。

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