松が峰サンシャインランドにて
記:高橋 聰
日 時:2022 年4 月19 日(火)~ 21 日(木)
参加者:山田茂則、吉永英明、廣島孝子、川村光子、高橋聰、石原達夫ご夫妻、小笠原辰夫8 名
4 月19 日 晴れ
8 時25 分頃東京駅の上越新幹線乗り場に着いて周りを見渡すが、まだ誰も来ていないようだ。暫くして川村さんがやって来て、もし混んでいるといけないので指定席を摂ったとの事、繁忙期ならそれでも良いのだろうが、始発なので指定席など確保しなくとも確実に座れるよ等と話しているうちに、乗車時間の案内が有ったので川村さんは指定席の方に向かっていった。同行する山田君は恐らく上野駅より乗ってくると思い、上野駅を過ぎたころ同行する山田君や吉永君に乗っているかどうか確認の電話をすると、二人とも指定車両に乗っていた。
(山本五十六記念館)
目的地で有る上越新幹線長岡駅に定刻に着くと、改札口に小笠原君が既に待っていてくれている。改札口で後ろを振り向くとなんと当初は参加予定で会ったが、体調不良で不参加の連絡があった廣島さんの姿が見える。どうした心境で参加するようになったのと聞くと、足の具合が少し良くなり、たいして歩くのではないと思い、昨日小笠原さんに連絡して参加したのだとの事。参加者が一人でも多くなった方が賑やかで楽しくなりそうだ。まだ昼飯を食べるには時間が早い。今回の計画は全て小笠原君に依頼していて彼にオンブにダツコだ。
先ずは山本五十六記念館に行くことになる。この記念館内はフラッシュを使用すると余計な光を浴びて展示物に影響を与える為に撮影禁止となっているので、どんなものが展示されていたのか、もう新しいことを記億するスペースの無い拙い頭では思い出すことが出来ない。展示されている手紙類を読むが、旧仮名使いで書いてあるのは良いのだが、殆どが崩し字で書かれているので、7 割程度読めればよい所だ。現在の若い方達では殆ど読めないのではないだろうか。
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| (山本記念公園内の山本邸・復元されて生家) | (山本邸) | 
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| (山本邸) | (山本邸) | 
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| (蕎麦処『松の栄』) | (『松の栄』蕎麦会席) | 
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| (シラネアオイ) | (フクジュソウ) | 
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| (雪割草) | (雪割草) | 
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| (雪割草(二段咲)) | (カタクリ) | 
ここを出たら丁度昼食時間となり、小笠原君の案内で昼食を予約してあった蕎麦処『松の栄』でゆっくりと蕎麦会席を楽しむ( 喉も乾いているので当然のようにアルコール類も楽しむ)。昼食後は長岡『雪国植物園』でゆっくりとシラネアオイやイカリ草の群落、オオイワカガミ、ショウジョウバカマ、シュンラン、イワウチワ等の春の花々をアップダウンを続けながら広い園内をゆっくりと2 時間程楽しんで、明日行く予定で有った松が峰サンシャインランドにある今が満開状態の桜並木を眺めながら宿のユアーズ・インに到着したのでした。
宿は本日、明日と僕たちだけの貸し切りだ。少し到着時間も押していたので、夕食は通常18時からなのだが、18 時30 ~にして貰い、ゆっくりと温泉に入ることにしよう。楽しい夕食の時間の始まりだ、本日5 人の中で女性陣のお二人は殆ど飲まないのだが、男3 人だけで翌日調べたら、なんとビールが13 本も開いていた。誰だか知らないが、飲み過ぎた故か階段で転んで肘を大きく擦りむいている。
4 月20 日 晴れ
予定通り9 時頃出発し、昨日通った松が峰サンシャインランドに再度行き、妙高山の遠望や、桜と見事な桜並木をゆっくりと楽しむ( 通りかかった多くの車も、ここで止まってゆっくりと桜見物を愉しんでいる)その後我が国の指定史跡となっている天神平の天神堂古墳群に行き、ゆっくりとカタクリの群落を楽しむ。
此の古墳群は恐らく確認調査の為に掘り返したもので有ろうが、かなりの数がこんもりと盛り上がり、いかにもここに古墳が有った感じで有り『古墳群案内板によると次のような説明書が揚げられていた。』
【此の天神平の古墳群は117 万m3 を超える面積を持つ新潟県内最大の古墳群です。南に位置する天神堂古墳群では現在の処106基の古墳群が確認されています。最高所にある1 号墳は方墳( 方形) であるが、その他は全て円墳( 円形) です。円墳の多くは約1600 年前の群衆墳と考えられます。大正時代と昭和30 年代に4 基の円墳が発掘調査され、埋葬方法は坑( あな) を掘って木棺を納める「木棺直葬」という方法で有ったことが判明し, 鉄剣や勾玉等が出土しています】
次に向かったのは日本スキー発祥記念館です。ここのパンフレットを見ると大正時代末に高田と札幌の間で「スキー発祥の地」をめぐる論争が起こり、この論争に一応の決着をつけたのは札幌出身で全日本スキー連盟の会長で有った稲田昌植氏で有り、稲田氏は高田で初めてスキー術が研究され、スキー術を各地に普及させた点を評価して、高田を日本スキー発祥の地であると認めたようです。1930 年( 昭和5 年) 金谷山に「大日本スキー発祥之地」という記念碑が建てられた。( 記念館の横には小さいながらも金谷山スキー場が現在も営業している)
スキー発祥とは、ただ単に「スキーを滑った」という意味だけでなく、①スキー術を研究し集団でスキーの練習を行う事、②スキーが民間の多くの人に受け入れられ、全国に普及していくこと、③スキーが一つの産業・文化へ発展し、結果としてスキーが地域の代名詞になっていくこと、その「はじまり」を意味しているようだ。
我が国にスキーを紹介したのはオーストリア・ハンガリー帝国のテオドール・エドラー・フアン・レルヒ少佐だという事は既に周知の事ですが、当初スキー指導を受けたのは1911 年( 明治44)1月12 日に陸軍第13 師団歩兵58 連隊の14 名の将校だった言われています。その後高田より全国にスキー術が全国に拡がったようです。
スキー道具に関してはレルヒが高田に来る直前、第13 師団に出入りしていた建具師や大工等にスキー製作を依頼して、思考錯誤の連続のなか額縁屋で有った三間博氏が先端部を曲げたスキーを納入して、彼が作成したものが民間人で初めて作成してスキーだと言われているようです。1911 年に直江津の田中鉄工場が師団から注文を受けて500台を完成させ納品したそうです。その後高田の山善靴店、月岡鉄工場や新井町の風間賢治郎などがスキー板の販売を始めてスキー生産は大正時代になると上越を支える一大産業となったのですが、昭和50 年代から市内のスキー製造御者の廃業が続き最後まで残っていたカザマスキーも1997 年( 平成9 年) に生産を中止したようですが、現在も国内シュアー100%のスキーエッジやストツク・FRPシート等は上越地域で製造されているようです。
此処をゆっくりと見学後新井に行って昼飯だ。その後高田の旧市街地にある「町家交流館高田小町」や雪対策としての雁木の通りや、1911 年に建造され、残存する映画館では日本最古と言われている『高田世界館』をゆっくりと見学して、最後に旧師団長官官舎を見学しながら美味しい菓子とお茶をゆっくりと楽しんで、帰路いつものように新井の路の駅により、吉永君が此処の塩辛が一番旨いのだと言って保冷容器に入れてたっぷりと買って、ユアーズ・インに帰ってきました。宿に帰ると当初参加予定で有ったのだが、先週健康診断で何か異常が出てしまい、19 日に再検査の為参加できなくなってしまった石原さん御夫妻も到着されており、今回参加予定の全員が顔を揃える。
4 月21 日 晴れ
今日で早くもあっという間に3 日目となり、今回の旅の最終日となってしまった。本日の予定は笹ケ峰高原の残雪をゆっくりと楽しむと共に、フキノトウ等の山菜を採取し、色々な山のお花との巡り合いをゆっくりと楽しむ予定である。最初に笹ヶ峰ロッジがある休暇村妙高笹ヶ峰キャンプ場に行って、妙高の残雪とここより妙高山への登り路等を見物し、この雪の多い所にカンジキを履いて今から妙高山の頂迄行く予定だという人達を見送って、回れ右をして帰路についたのでした。途中、途中で路肩のフキノトウを女子組の廣島孝子さんと、川村光子さんのお二人は頑張ってフキノトウを拾われていたのでした。又途中にはフクジュソウ等の群落も所々で見られ大いに目を楽しませてくれたのでした。
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| 高田小町 | 
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| (妙高高原ビジターセンター) | |
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| (高田世界館) | (映写機) | 
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| (館内) | |
その後は新装開所した『いもり池のビジターセンター』に立ち寄り妙高地区の歴史や成り立ちなどを勉強しました。そろそろ時間となりお腹もすいてきた。昨晩遅く迄小笠原さんが調べて、飯山市の木島平にある蕎麦処『健生庵 山愚』が美味い蕎麦を食べさせるようだと言って『いもり池のビジターセンター』より一時間近く運転して『健生庵 山愚』へ連れて行ってくれたのでした。この店は出来たら予約してきてから来店して欲しいのだが、お客さんたちの人数分くらいはまだ残っているので大丈夫ですよと言われて入店することが出来ました。
蕎麦は地元でとれるもので混ぜ物無しの10 割蕎麦だとの事で、つゆはかなり濃く作っているので、少しだけ付けて食べて下さいと言われて、そのようにしたのですが、確かに蕎麦自体は美味しかったのですが、何かいつもと食し方が違ってくるとどんなにおいしくとも何か違和感が僕には残ったのでした。
食後ここで他に回って帰る予定だと言われる石原さんご夫婦と別れ、北陸新幹線飯山駅迄小笠原さんに送ってもらい、此処で解散し、同じ列車の同じ箱に乗って帰ったのでしたが、お客さんは殆ど居ないので、各自思い思いの席にバラバラに座り帰ってきました。
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| (蕎麦処『健生庵 山愚』) | 
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| (蕎麦処『健生庵 山愚』) | 
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| (蕎麦処『健生庵 山愚』) | 
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| (高田小町にて昔の防寒着「角巻(かくまき)」や紳士の「とんび」を着こなす3名) | 
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| (天神平カタクリの群落) | 
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| (鮫ケ尾城天神平にて) | 































