記:吉永英明
期 日:令和4 年11 月8 日( 火) ~ 11 日( 金)
参加者:森武昭、高橋聰、醍醐準一、竹内晴美、小笠原辰夫、吉永英明 6 名
『歴史は、その風土の現場で感じねばならない。』司馬遼太郎さんの言葉である。今回は好きな山登りに「神話の国」の風土を肌で感じ、合わせて二つの世界遺産を見聞しようと計画したもので有る
11 月8 日 ( 火曜日) 快晴
午後1 時半すぎ。割引の新幹線(「ひかり」と「さくら」) で広島駅に集合。既に長躯新潟は妙高から小笠原さんが8 人乗りの新車で待っていてくれた。小笠原さんは途中丹後の「天の橋立」に立ち寄りながら来てくれたものである。
私が広島で会社努めをしていた昭和40 年代と違い、山陽・山陰を結ぶ高速道路が建設されている為、広島~島根県の日本海迄約2 時間程度で行ける。広島駅より広島都市高速、山陽自動車道、広島自動車道、中国自動車道、浜田自動車道経由で一路日本海を目指した。私にとっては懐かしい地名の標識が多かったが、高速道路のせいか思い出せる風景は全くなく、アット言う間に中国山地を超え、山陰に入った。車の通行量は極端に少なく、山陽・山陰の低調なる交流が偲ばれた。浜田道終点の浜田市を経て、日本海沿いを東進し、温泉津温泉に到着した。近くの温泉津港は,石見銀山より産出された銀を運び出した港として利用されていた由で、港全体が世界遺産となっている。
昔の湯治場の面影が残る狭隘な道路沿いの旅館街を辿り、今日の宿「輝雲荘」に入った。9月頃インターネットで捜し予約した際、料金が全体的として高目であった為、その理由を聞いて見たところ、11 月第1 週から第2 週にかけては出雲の国では『神有月』と呼ばれており、八百万の神々が出雲の大社( おおやしろ) に集まられて会議を開く季節の為、旅のシーズンとなり宿泊代も高くなるとの事であった、因みに出雲以外では11 月を『神無月』という。
輝雲荘は昭和初めの頃の開業で80 ~ 90 年程度経過している由であるが、歴史ある温泉津では新参者として扱われていると番頭さんから伺った。宿では2 階の3 部屋を用意してくれ、真ん中の部屋を我々専用の宴会場にして、久しぶりの豪華な膳を囲む夕食となった。3 回のコロナワクチン接種を条件とした宿泊代の4 割が割引されるいわゆる旅割の恩恵に預かり、加えて1 人3.000 円のクーポンを交付された。
11 月9 日( 水) 快晴
温泉津温泉を8 時30 分頃出発し、太田市の町中を経て、山陰の名峰三瓶山(1.126m) を目指した。三瓶山は、古代の火山により形成された山で, 主峰・男三瓶・女三瓶・小三瓶・孫三瓶が火口を囲んで並び立っている。今回は女三瓶東麓の『東の原』からリフトを利用して女三瓶と大平山の鞍部に登り、ここから女三瓶を経由して主峰まで縦走するコースを選んだ。
標高が1.000m 程度のため、少々舐めていたが、登り下りが多い上、ヤセ尾根、岩場があったりし、てなかなか登り甲斐のあるルートであった。快晴の頂上からは, 北東方に出雲平野と弓状の日本海の浜、当方に雪化粧をしたらしい「大山」がうっすらと望め、南方には累々とした中国山地の山並みが横たわっていた。主峰からは北側の「北の原」へ下り、女三瓶迄は登ってから、東の原に下った高橋君が車を回送してくれていた「姫逃池」の駐車場に下山した。
下山後は、昨日旅館で貰ったクーポンを利用するため、小笠原さんが携帯で何とか探し当てた出雲市の回転寿司『藏ずし』へ急行し、一皿110 円程度の寿司を食べまくり、生ビールも楽しんだ。それでも夕暮れまではかなりの時間があった為、出雲大社( いずものおおやしろ) を訪れ,二礼四拍一礼の作法に従い参拝をした.天孫族に対抗した出雲族の代表者である大国主命をお祭りする【やしろ】であり流石に規模も大きく注連縄の巨大さにも驚き、周囲の凛とした空気の中の佇まいに圧倒されつつ、神話の時代に思いを馳せ、きようの宿「武志山荘」に向かった。
一畑電鉄「出雲科学館駅」近くの高台にあるややレベルの高いホテルで、夕食も「おろちプラン」なる出雲らしい献立で, 彩り宝石箱といった先附から最後のデザートとしての水菓子まで楽しませてくれた。
11 月10 日( 木) 快晴
 出雲は『神有月』のせいか今日も快晴。ホテルで大社以外の見どころと奨められた「日御碕」を訪れ、「日御碕神社」に大社と同じ作法で参拝した。ウミネコの繁殖地としての著名な「経島」を近くに見、「ジオパーク」も見学した。その後は、大国主命と天皇家にも連なる天孫族の間での「国譲り」神話のある「稲佐の浜」を左手に見て石見銀山に向かった。
 石見銀山は世界遺産指定後、急速に整備が進められてきたため、佐渡金山に比べるとアクセス、坑道内の整備状況等に雲泥の差がある。途中、道に迷いつつも銀山B 地区に駐車し、片道2. 3km の登り気味の道路を歩いて、見学が許されている『龍源洞間歩』( 間歩は銀採掘の坑道) を地元のボランテイアの方の案内と説明で見学した。江戸初期から大正年間まで世界の銀の1/3を算出したと言われる歴史を感じ、生活のためとは言え狭い坑道内での手作業の採掘にそのご苦労を偲んだ。作業に従事されていた人達は概ね50 歳までには亡くなったという。
 見学後は一路広島へと考えていたが、昨夜出雲のホテルで貰ったクーポン券「しまねっこ」を使い切ろうとルートを変更し、山陰の大河『江の川』近くの道の駅『かわもと』に立ち寄り、昼食として出雲そば、ラーメン等を味わい、広島へ向かった。
 帰路も、浜田山の「瑞穂インター」より高速に入り、浜田道、中国道、広島道、から広島西バイパス経由で、広島中心街にある『法華クラブ』に投宿した。宿代は4 割引で、またも3.000円の広島県のクーポンも交付された。各々、入浴後、予約していた繁華街本通りの居酒屋「豊丸水産」で広島名産の焼牡蠣、烝牡蠣、生牡蠣等を堪能し、クーポン3.000 円を含み一人6.000以上を費やし、全員心いくまで飲み、食べ呆けた。
11 月11 日( 金) 快晴
 私の広島在任中、100m 道路と称していた「平和大通り」を歩いて「平和公園」へ。先ずは【原爆ド- ム】を見学した後、爆心地を訪れた。ドームを爆心地と思っている方がほとんどであるが、爆心地はドーム~北東方へ約20 0m 離れた所にあり、昭和20 年8 月6 日午前8 時15 分上空600m で爆発したとの案内板が設置されていた。
 その足で平和公園内の慰霊塔を参拝。犠牲者の霊を祀った後、原爆資料館を見学した。入場料200 円は安すぎると思う。20 万人を超える一般人が犠牲となった77 年前、何とかならなかったのかと思うと同時に、戦争の犠牲者になるのは、いつの時代でも弱い人ばかりと、今起こっているウクライナでのロシア侵攻を非難しつつ情けなく憶った。
 見学後ホテルに駐車していた車に戻り、広島駅で解散した。
 小笠原さんは、この後妙高迄車で帰られる。我々の為に車で来て頂き、いつもながら感謝、感謝である。
| 旅で食したもの | |
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| 輝雲荘のお食事 | |
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| ホテル武志山荘 | |
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| ホテル武志山荘 | 
 居酒屋 豊丸水産  | 






















