記:西村幸雄
期 日:令和6 年2 月19 日~ 22 日
参加者:関口興洋、高橋聰、伊藤禎裕、小笠原辰夫、斎藤悦子、中瀬龍男、下河辺史郎、横田昭夫、
船坂不二夫(横田友人)、椎名キクエ
2 月19 日(月)晴時々曇 初日各地より妙高に集合
東北新幹線・北陸新幹線・長野駅から、北しなの線へ3両編成の電車に乗る、乗客の半分くらいは外国の方々で大きなバッグにスキー用の長いバッグを抱えていた。電車は順調に進むが、沿線風景は昨年と、がらりとちがう。昨年は降雪のため「黒姫駅」で運転を打ち切られたことを思いだす。定刻14:05 に妙高高原駅に到着した。改札口に標高510㍍と記した脇を通り駅頭にでる。小笠原さんが迎えに来てくれている、挨拶も「そこそこ」に「ここは妙高ですか」?と問う。3 度目の妙高だが全くと言って良いほど雪がない、いつもなら道路脇には見事な壁が出来ているのに目立つのは、路側を表す「赤と白」のポール、そして「消火栓」の高いこと。初めて見る高さです。
チエックイン、滑りに行きますか?と問われるも14:30 で、時間的に半端なので止める。明日からのスキーに備えて準備で時間を潰す。昼前に到着した高橋さん、下河邊さん、横田さんらがゲレンデから戻ってきた。早速、温泉へ。部屋へ戻るとグラス・缶詰(!?)が・・・横田さんの気遣いが嬉しい。暫し旧交を温める。そのうち同室の中瀬さんも到着。夕食時は9 名全員で乾杯。
2 月20 日(火)小雨(ガス濃い) 善光寺~岩松院~浄光寺「薬師堂」
スキーは危険と考え「善光寺参り」に行くことになり、9 時30 分出発するとの案内が有り、駐車場に集合する。小笠原さんの運転で、ガスが濃く見通しの悪いなか一路長野市へ向かう。
野尻湖脇には「ナウマンゾウ」のモニュメントがあった。湖畔の旅館の主人加藤松之助氏が湖底からナウマンゾウの臼歯を発見したことから50 年間に22 回の発掘調査を行っているという。長野市は盆地なのか、向かう道は九十九折りの下り急勾配が続いている。市街に入り「昼食はソバの旨いお店です」と案内を受けお店の前を通ると「本日休業」の文字が。残念!中央通り駐車場にスペースが見つかり車を置くことが出来、三々五々参道に向かう。
参道に入る前に信号待ちの間、「長野市道路元標」なるものを発見、「仙台222」、「大阪326」、「福岡780」等々日本ばかりで無く外国までも記してあった。数字の単位は不明。
仲見世通りを進むと総欅造りの「仁王門」、左側に「阿形像」高村光雲作、右側に「吽形像」米原雲海作。その背後には「三宝荒神」と「三面大黒天」像が置かれている。繁々と鑑賞す。これらの配置は左右逆であることを後で知りました。ここも外国の善男善女が多い。
「山門(三門)」は二層入母屋造りの建物で1750(寛延3 年)の建立で、国の重要文化財に指定されている。
平成の大修理により、それまで檜皮葺きだった屋根を建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されている。団体客の案内人が「善光寺の善が牛に見えませんか」?と声を張り上げていた。傍らの建物の中に唐銅製の「牛の座像」があり皆さんが撫でたのだろう顔がピカピカしている。仲見世通り両側にはお土産屋さん、各寺院がたくさん並んでいる、入口には「ご朱印」の文字。
善光寺は1400 年の歴史を持つ、「牛に引かれて善光寺参り」で有名な日本を代表するお寺のひとつです。本堂は国宝に指定されており、日本最古の御仏を祀っています。無宗派の寺院で有り、身分も性別も分け隔てなく、お参りした全ての人に救いや希望をもたらしてくれるお寺ということもあって、県内外から年間500 万~ 700 万人の参拝客が訪れます。ご本尊は一光三尊阿弥陀如来。創建は、白鳳時代645 年と伝えられ、わが国で最も古い時代に建てられた日本最大級の木造建築で、その独特な優美さから国宝に指定されています。(現存する本堂は江戸時代中期の1707 年建立)本堂の地下には戒壇めぐりの回廊があり、ご本尊と結縁し極楽への錠前に触れることができます。(Web より引用)
残念ながら時間の都合で「戒壇めぐり」は出来なかった。宿題が出来ました。栗と北斎と花のまち「おぶせ」へ。千曲川を越え小布施町へ、北斎館前の「北斎亭」にて昼食、全員「カモうどん」アッサリ出し汁の腰の強いうどんでした。1,150 円。
【北斎と小布施町】
天保年間、江戸日本橋本銀町で呉服商などを営む小布施出身の十八屋を介して、髙井澒山が浮世絵師葛飾北斎と出会います。その数年後北斎は澒山の招きに応じて小布施を訪れました。北斎が初めて小布施を訪れたのは、実に83 歳の秋でした。以後、北斎は都合4 回訪れ、晩年の集大成である肉筆画に全力を注ぎ込みました。当時の小布施は北信濃の経済の中心地として栄え、小布施文化の華開いた時代でした。北斎は、この地で絵師としての充実感を得て、安らぎに満ちた時を過ごしたのです。(小布施観光案内帖より引用)
次いで訪れた、北斎晩年の傑作「八方睨み鳳凰図」のある、曹洞宗梅洞山「岩松院」仁王門
をくぐり薄暗い本堂へ入る、ここにも外国の方々の団体がおりました。拝観料500 円を機械に投入、時間になれば係の方が説明する。本堂の大間、その天井には21 畳の大きさの極彩色の絵が。江戸末期の嘉永元年(1848 年)北斎89 歳の作品。岩絵具は中国より輸入した辰砂・孔雀石・鶏冠石などの鉱石を用い、その価は150 両。(現在の価値はどれぐらいだろう)金箔を4400 枚使用し、現在まで一度も塗り替えはしてないという色彩光沢は少しも変化しておりません。説明を所々で区切り、何に翻訳させているのか2 カ国語での説明でした。
冬季閉鎖で訪れることが出来なかったが、岩松院の裏手には福島正則の霊廟が建立されています。また、裏庭に小林一茶が詠んだ「痩せかへる まけるな一茶 是に有」という池と直筆の句碑もあるという。拝観したかった。
200 メートル程度離れたところに在る、国指定重要文化財 浄光寺「薬師堂」を参拝する。本堂右側のこぢんまりとした仁王門をくぐり石段とも坂道とも区別がつかない参道を上る。途中から「さくら樹木葬浄苑」への分かれ目がありました、チョット上って杉木立の中に重要文化財薬師堂がありました。この建物は、応永15 年(1408 年)に再建され、室町時代初期の代表的建築物という。重厚な茅葺きで周囲の景観に溶け込んでおり、薬師如来像、十二神将、薬師堂壁画、金銅仏など多くの文化財が収められているという。冬期故か辛うじてお賽銭だけを受けるくらいしか戸が開いておらず貴重な文化財を拝観することが出来ませんでした。夕食後に椎名さん合流し賑やかになる。
2 月21 日(火)雨 上越方面観光
昨日からの雨は未だ止まない、スキーは断念して上越市へ。市指定文化財 旧師団長官舎、スキー発祥之地を巡ることになりました。道順の関係から、先にスキー発祥之地「金谷山」を訪れましたが、レルヒ少佐と旧師団長 長岡外史(1856 ~ 1933)のことを理解して頂くため2人のことから紹介したい。
長岡外史と日本スキーの始まり ・・・上越市観光パンフより現在の山口県出身。陸軍大学校を卒業し、大本営参謀次長等を経て第13 師団長に就任しました。その間、約3 年にわたりヨーロッパに派遣され、北欧を視察した際、スキーと出会いました。外史は、軍事だけでなく雪国の住民の暮らしの向上のためにスキーを導入することが大切だと考えていました。・・・以下略・・・
テオドール・エドラー・フォン・レルヒ(1869 ~ 1945)
当時のオーストリア・ハンガリー帝国の陸軍人で、軍事視察のため来日しました。リリエンフェルト式 スキー術(一本杖スキー術)の創始者ツダルスキーの弟子で、高田に滞在中、熱心にスキー指導を行いました。帰国後も、上越の人々との交流は続きました。
日本のスキーは上越からはじまった。明治44 年(1911)1 月12 日、レルヒにより日本で初めての本格的なスキー指導が高田で行われました。その発端には、ヨーロッパ留学でスキーの重要性を理解していた外史と、スキーを特技としたレルヒという2 人の運命的邂逅がありました。それから1 ヶ月には日本最初のスキークラブ「高田スキー倶楽部」が結成され、スキーは市民の体育向上と民間への普及につながり、ひいては現在のウインタースポーツの礎が築かれました。・・・以下略・・・
これで、日本スキー発祥の立役者ということが理解できたと思います。
金谷山にはレルヒの記念碑が高々と建っている。例年なら積雪があるのだろうが、傘を差し赤土の道を銅像の基へ、高田平野が一望できる。すぐ近くのスキー場は地肌が出ており閉鎖状態でした。傍らの圧雪車ショボン。
レルヒが日本にスキー術を伝えた当時、女性がスポーツするなど考えられない時代。長岡外史師団長は女性がスキーをすれば国民に広がると考え、自分や将校達の家族にもスキーの練習をさせたという。
写真を見ると、4 人の女性「はかま」を着けている。
案内役の小笠原さんは、レルヒが日本に滞在することを渋ったという、何故か?「ドイツワインが飲めないから!」とのこと。
私が初めて皆さんと一緒した一昨年はスキー発祥110 周年だった、上越妙高駅に「日本スキー発祥」に関する資料が展示されていました。
一部分紹介します・・・
師団長による積極的な働きかけより、たちまちスキーは民間の人たちにも受け入れられて行きました。
レルヒが来たその冬のうちに、現在の全日本スキー連盟のもととなる高田スキークラブが結成され、スキー板の生産が始まり、スキー民謡などの歌謡曲やスキーせんべい・スキーあめ・スキーようかんなどの土産品も作られるようになり、こうしてスキー産業は上越の一大産業となっていきました。と、記してありました。
【旧師団長官舎】
明治43 年(1910 年)旧日本陸軍高田第13 師団第3 代師団長 長岡外史中将の邸宅として建設
された。外史のヨーロッパでの生活経験を反映された設計が随所に生かされた和洋折衷のモダ
ンな建物です。
門から玄関に通ずる生け垣の中に長岡外史の胸像が雪囲いに覆われ建てあり、立派なひげが印象的でした。玄関を入ると、左側に男子応接室が、椅子とテーブル ・・・ 1 ダーステーブルと呼ばれ昔は12 席で食事がされたという。その奥には、婦人応接室、ピンクのカーテンで女性らしい作り、入口扉の裏面に鏡、位置が低いことから当時の身長が伺えます。部屋ごとに飾りのちがう天井飾り(シャンデリア)、漆喰とカーテンの色も雰囲気や印象も全てちがいます。赤絨毯の廊下から2 階へ靴を脱いで和室へ、茶室や子供部屋。丸く出っ張った部屋が1 階と2 階にあった。当日はこの部屋でコーヒーを頂いたが気になっていた。これは半温室ということは後で知りました。
次いで、東本願寺 真宗大谷派 高田別院をお参りする。ここには国指定文化財、登録有形文化財として ①高田別院本堂 ②高田別院鐘楼 ③高田別院大門 ④高田別院院塀の4つが文化庁より指定されております。
大門の両脇にある石灯籠が倒れた状態でした、能登半島地震で?何が起因かはわからないが非常に大きな加重があったことだろう。昼食のため「へぎ蕎麦」の美味しい「小嶋上越店」に到着するが、入口に「毎週水曜日を休業日」の張り紙。昨日に続き「本日定休」。
妙高へ向かう途中のお店「文ざ」にて全員「A セット」(ソバと海鮮丼)で戴く。一同満腹。車中、小笠原さん「今晩は他のお客さんは居ないので帰ったらお風呂に入って、食堂も解放するので飲んだら」とすすめられる。夕食の頃にはチラチラ降雪があった。
2 月22 日(木)雪 積雪5㎝位
帰宅する日です。笠原さんブルドーザーで玄関前、駐車場周囲を除雪してくれている。感謝。9 時、表で雪の降るなか集合写真後、解散。下河邊さん、椎名さん、高橋さん、横田さん等の見送りを受け車上へ、関口さん妙高高原駅へ。斉藤さん、中瀬さん、西村3 人は上越妙高駅に送って戴く。山口の伊藤さんの記憶がない?
今回のスキーの集いは、暖冬の影響か?は不明ですが天候に恵まれることなくスキーをすることが出来なかったが、長野市や上越市にまつわる貴重な文化・歴史を学び見聞を広めました。多々宿題を戴きましたので改めて訪問したいと思います。
余談ですが、 岩手で「石原ご夫妻にあう」
1 月29 日(月)~ 31 日(水)自分たちのスケジュールで「網張り温泉スキー場」に行きました。29 日、昼近い時間、なんか石原さんの奥さんに似た方が滑っている?「いや、ご主人の看病で此処に居るはずはない?」と、この時は「他人のそら似」と過ごしたのです。一応の、スケジュールをこなし夕食のためレストランで食品を取りわけていたとき、背後から「にしむらさん」と女性の声。振り向くと、なんと「石原さん」の奥さんでした。「ご主人は?」、「あそこのテーブルにおります」、早速伺うと凄く元気で「1本滑りました」。前々からこの時期に現役時代の方々との交流を続けていることは知っておりましたが、昨年病気で倒れた経緯もありお会いすることができ嬉しかった。
旧師団長官舎








