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公益社団法人日本山岳会

中国地方の名所・山城を訪ねる里山ハイキング 2日目

記:山村恵子

【日 時】:2024 年4 月16 日( 火) 

【参加者】:小笠原辰夫、高橋聰、小亀真知子、山田茂則、斉藤悦子、山村秀彦、山村恵子、

     椎名キクエ、中瀬龍男 (合計9 名)

 山想倶楽部の山城トレッキング、2 日目は天空の城とも言われる「備中松山城」現存する日本一高いところにある天守閣です。臥牛山小松山山頂430m にあります。ふいご峠まで車で登れるので、そこからは登山になり、415 段の大小の石段を登ること30 分あまり、NHK 大河ドラマ「真田丸」のオープニングに使われたと言う巨大な石垣が見えてきて、いよいよ本丸です。

猫城主「さんじゅうろう」が本丸で出迎えてくれました。

展望台から遠く前方に天守閣と二重櫓(重要文化財)が見えました。雲海がなくて残念。

備中松山城 立派な展望台。

大手門跡。ドラマに使用された石垣。

大手門から先には多くの石垣が残っていますが、ひと際、目を引くのが大手門の右側にそびえる石垣群です。天然の岩盤の上に石垣を築き、更に土塀を建てています。この岩盤の風景は、NHK 大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像で使われました。

備中松山城 三の平櫓東土塀

 三の平櫓東土塀は、大手門を入り左に曲がると正面に見えるもので、現存する土塀です。備中松山城には現存する土塀が2ヵ所(三の平櫓東土塀・厩曲輪土塀)あり、そのうちの1ヵ所が重要文化財に指定されています。

 構造としては、土を練って造った土の塊を積み重ね、芯とし、その外側に漆喰を塗り仕上げたものです。城郭において重要文化財に指定されている土塀はほとんどありません。備中松山城の土塀の復元に際しては、この現存する土塀を復原する形で行われており、狭間(ざま)の並べ方など同様の配置になっています。

 現存と復元の境界には、段差が設けてありますので、現地で確認してみてはいかがでしょうか。「高梁市ホームページから引用」

備中松山城 二の丸跡

 備中松山城は曲輪の配置は、本丸・二の丸・厩曲輪・三の丸と連なり、連郭式の山城となっています。そのなかでも二の丸はもっとも広い曲輪です。二の丸の入口部分には、二の櫓門があったとされ、その礎石なども残っており、礎石には柱の痕跡も残されています。休憩やお弁当を食べるのに最適な場所で、記念撮影にもお勧めです。

 平成30 年7 月豪雨の後、備中松山城三の丸で保護された推定3 歳のオス猫。備中松山藩の藩士から新撰組の隊長になった谷三十郎にちなみ「さんじゅーろー」と名付けられました。その可愛らしさと人懐っこさから観光客の人気となり、豪雨で落ち込んだ城の入場者数をV字回復させました。その後一時行方不明になりましたが、懸命の捜索の末、無事発見され、備中松山城PR 大使「猫城主 さんじゅーろー」として12 月16 日に正式デビュー。現在「さんじゅーろー」は、原則、城の管理事務所に常駐し、定期的に城内見回り(1 日2 回、10 時と14 時)を行っています。

「岡山観光WEB ホームページから引用」

本丸では猫城主(さんじゅーろー)がお出迎え。

備中松山城天守閣

 備中松山城では、天守と二重櫓の2棟の建物と三の平櫓東土塀の1基の土塀が国の重要文化財に指定されています。

 天和元年(1681)に藩主水谷勝宗(みずのやかつむね)が修築に着手し、同3 年(1683)に完成しました。建物は塗込土蔵造(ぬりこめどぞうづくり)のいわゆる近世式城郭建築に改められましたが、城地は元弘元年(1331)に備中守護職高橋九郎左衛門が初めて築城した小松山城の縄張りをほとんどそのまま用いています。

備中松山城の天守は現存天守12 天守のうち、唯一の山城に残っている天守です。

 二層二階の層塔式の天守で、天和3年(1683)に水谷勝宗(みずのやかつむね)の大改修の際に現在の形になったといわれており、約330 年間経過しております。

 天守の高さは約11 mで、現存天守の中では最も低いものとなります。

 古文書によりますと、天守は「三重櫓」と呼ばれており、外観は三重ですが、実際には二階建です。一階には囲炉裏(いろり)があり、装束の間(しょうぞくのま)という城主だけが入る一段高い部屋があります。二階の正面には御社壇(ごしゃだん)を設けて、三振の宝剣(岡山県指定重要文化財)を御神体として祀っていました。本来の構造は八の平櫓から廊下を通って入る連郭式でしたが、昭和15 年(1940)の大修理の際に、荒廃がひどく原型に復帰が困難なため、やむなく切り離したもので、昔の姿とはやや異なっています。「高梁市公式ホームページから引用」

天守閣の背後に備中松山城 二重櫓

 二重櫓は、天守の後方に建つ二重二階の櫓で、水谷勝宗(みずのやかつむね)による修築(1681~ 83)の際に建てられたものと思われます。

 一階の床面は7.9 m× 5 m、棟までの高さは8.4 mあります。入母屋造りの屋根は本瓦葺きで、大棟の両端に一対の鯱(しゃちほこ)を据え、破風には梅鉢懸魚が飾られています。入口は一階の北と南に設けられていて、本丸と後曲輪(うしろぐるわ)を結ぶ役割を果していたのではないかと考えることができます。漆喰塗りの連子窓は各面1・2 ヵ所に開いていますが、城外に面した西面のみ3ヵ所とし、石落しも設けて防備を固めています。

 備中松山城には14棟の櫓がありますが、二階建の櫓は二重櫓のみであるため、天守に次いで重要な役割を担っていたものと思われます。

 昭和3年(1928)に有志の拠金によって修理され、昭和34 年(1959)の解体修理で完全に修理されました。「高梁市公式ホームページから引用」

登城してきました

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