記:山村恵子
【日 時】:2024 年4 月 18 日( 木)
【参加者】:小笠原辰夫、高橋聰、小亀真知子、山田茂則、斉藤悦子、山村秀彦、山村恵子、
椎名キクエ、中瀬龍男 (合計9 名)
山想倶楽部山城トレッキングツアー4 日目(最終日)は、東洋のマチュピチュと言われる竹田城跡。
4月に初めて昨日は雲海が現れたそうですが、今日は黄砂に霞むお城でした。午前は立雲峡(朝来山756m の中腹にある)の展望台から竹田城を望み、昼食後にいよいよ竹田城跡登山開始。400 年以上前に築造された野面積みの石垣は見事な造りで、城郭は壮大。景色も良くて楽しめました。岡山駅で3 日前にスタートしたツアーは今夕京都駅で解散、天候にも恵まれ楽しい4 日間でした。
【竹田城の歴史】
竹田城築城、太田垣氏の時代
竹田城の始まりは、嘉吉年間(1443 年頃)に当時の但馬守護山名宗全が配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりとされます(口碑)。その後、山名氏の重臣である太田垣氏が初代・光景(誠朝という説あり)以下7 代に渡って城主を務めました。しかしながら、天正8 年(1580 年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による但馬攻めにより、竹田城は落城、太田垣氏も没落したと考えられています。
赤松広秀の治世
その後、羽柴秀長(城代)、桑山重晴と城主が続き、天正13 年(1585 年)播磨龍野城主であった赤松広秀(斎村政広)が朝来郡2 万石(その後2 万2 千石)で入城します。現在に残る石垣遺構は、広秀が城主の頃に整備されたと考えられます。また、広秀は「仁政の主君」として領民から慕われていたとされます。養蚕業や漆器産業を奨励し、現在に繋がる地場産業の礎を築きました(漆器作りは、竹田の地場産業である家具製造業の元になったと伝えられています)。他にも、近世儒学の祖とされる藤原惺窩を援助したり、文禄・慶長の役により日本に来た朝鮮の儒学者姜こうに教えを乞うなど、儒学の普及振興にも大きく貢献しました。
関ヶ原の戦い、廃城
慶長5 年(1600 年)関ヶ原の戦いが起こると、当初広秀は西軍に与し丹後田辺城攻めに加わりました。その後、西軍の敗戦を知り竹田城に撤退したところ、東軍として鳥取城を攻めていた因幡鹿野城主亀井玆矩から来援要請を受け出陣、功を挙げたとされます。しかし、鳥取城攻めの際に城下町を放火したとの罪で自刃させられ、竹田城も廃城となったのです。







