サトケン 「横浜ウォーク:横浜の史跡を訪ねて歴史をたどる」
5月16日(水)10時、根岸線石川町駅を出発し、間もなく急な坂を昇りつめると眼下に拡がるビルや家並の一帯が目に入ってきます。かつてそこが海だったと想像できますか。
幕末、100戸にも満たない寒村だった横浜というのは、横に長い浜のある半島のような地で、内側の内海を次々に埋め立て、現在の横浜ができました。
そんなことを地図で確認しながら程なく、フェリス女学院に到着です。
開港(1859年)間もなくキリス教宣教師が次々来日、布教活動だけでなく教育、医療、社会事業等で活躍し、なかでも女子教育に大きな足跡を残したのが女性宣教師です。フェリス女学院は明治3年(1870年)創立した日本最初の私立女学校です。
因みに横浜には日本で最初というものが多く、馬車道の街路樹、ガス灯もそうです。
フェリス女学院から10分程の所にあるジェラ―ルの水屋敷跡は、素敵な緑豊かな元町公園になっていました。フランス人ジェラールは20代前半(1863年頃)より横浜で食肉を船舶に供給することから始め、後には大掛かりな船舶給水業と共に居留地で必需品となった西洋瓦や煉瓦の製造も始め、大変な財を成し故郷へ錦を飾ったようです。
滞在は15年間でしたが、先見の明がある若者の充実した日々だったのでしょう。
公園を抜けると隣は横浜外国人墓地の裏手になります。この墓地の最初の埋葬者は戦艦ミシシッピー号のウイリアムズ2等水兵でした。ペリー2度目の来航安政元年(1854年)の折、横浜沖に停泊中のマストから墜落したそうです。海の見える丘に埋葬して欲しいというアメリカの要望でした。後に生麦事件で亡くなったイギリス人チャールズ・リチャードソンも埋葬されています。今日では約6600坪の墓域に異国の地で亡くなられた方の4800程の墓標が立ち並んでいます。
公園の中がいつもきれいに整備されている「港の見える丘公園」とフランス山一帯に、幕末から明治にかけてイギリス、フランスの兵士約300人が駐屯していたことをご存知ですか。幕府が両軍の横浜駐屯を許可したのが文久3年(1863年)です。横浜に居留地ができると外国人が日本に住むことを快く思わない人が多く、外国人を襲う殺傷事件等が相次ぎ、警備に自信のない幕府は駐屯を認め明治8年(1875年)まで常駐していました。
その後、軍隊が引き揚げた後も公用地として借用が認められ、更に様々ないきさつのすえ、昭和46年(1971年)横浜市が4億円でフランスからフランス山を買うことになりました。もともと日本国のものなのに買い取ったなんて複雑な話ですね。
フランス山を降りると、ヘボン式ローマ字創始者としてよく知られたヘボンのお住まいがあった所です。ヘボンは日本が開港した二ュースを聞き、開港3ヶ月後の安政6年(1859年)上陸しています。幕末から明治にかけどんな病でも治療できる名医として知られ、横浜の近代医学の基礎を築きました。医療を行うと共に英語塾を開き和英辞典を編纂し出版、更に新旧聖書の翻訳、出版も明治21年に果たし、英語塾は明治学院大学に発展し、明治22年にヘボンは初代総長に就任しました。
海岸から、横浜ベイスターズの本拠地のある横浜公園まで一直線に伸びている日本大通りは、初夏はイチョウ並木の新緑、秋には黄葉と訪れる人の目を楽しませてくれますが、この広々とした通りが出来た理由をご存知ですか。慶應2年(1866年)10月21日午前8時頃豚屋(肉屋)方から出火、南風にあおられ市街地中心部の日本人居住地区の3分の2、居留地の4分の1が焼失しました。この大火をきっかけに明治元年(1868年)、横浜消防組が強化され、さらに居留地の外国人たちは新しい都市計画を要求してきました。海岸から公園まで、日本人居住地と外国人居留地区とを幅広い道路で区切り、道路に下水道を完備して両側に歩道と街路樹を植えるなどです。しかしこの建設は幕府の瓦解、明治政府の移行期にあたり大幅に遅れましたが明治22年に完成、今に至っています。
以上訪ねた所のいくつかを記してみました。一ヶ所一ヶ所訪ねる度に、幕末から明治へという大きな歴史のうねりの中で、横浜らしい発展とともに生きた内外の人々の声が聞こえてくるような気がいたしました。
初夏の風が心地良い中、楽しい一日でした。5月中旬は横浜が一番美しく映える時期です。
F氏が撮影下さった写真でおわかりのように港の見える丘公園の見事なバラに圧倒されました。日本大通りのイチョウ並木も若芽が眩しいようでした。
行程を終え、中華のお店での打ち上げも盛り上がりました。60代なったばかりの方ひとり、あと7人は70代前後ですのに見事な食欲。ビール、食事美味しく、その上楽しいおしゃべり終わりはありませんが、歩き疲れをいやしたところでお名残惜しく解散になりました。
参加者 男性3名女性5名
2018年5月16日
Y. N