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公益社団法人日本山岳会

講演会報告 「冬期マッキンリーの登山と気象遭難」 1990年2月

講演会「冬期マッキンリーの登山と気象遭難」
1990年(平成2) 2月17日(金) 
山岳会ルーム

講師:木本 哲、渡邉玉枝、大蔵喜福、奥山 巌
参加者50名  報告:543、544、545(中村純二)  予稿集:20P


報告

冬季マッキンリーの登山と気象遭難(1)

山543(1990/9月号)

報告

冬季マッキンリーの登山と気象遭難(2)

 1982年12月27日、厳冬のエベレストに登頂した加藤保男は後発の小林利明とともに、南峰直下でビバーク態勢に入るとの交信を最後に消息を絶った。当時の気象状況をラサ上空の300mb(高度は9310メートルに相当)高層天気図から求めた結果を第1図に示す。耐風限界の52.9m/s以上は斜線入りとなっているが、一般に稜線上では風速が自由大気中より30%近く増大するので、27日はまさに最悪の状態だったと言える。

1989年2月下旬、マッキンリーデナリーパス付近で遭難した山田昇、小松幸三、三枝輝雄ら3名の場合、フェアバンクス上空500mb(5460メートル相当)の高層天気図から求めた気温と風速は第2図aの通りである。この場合も稜線風や、地形による乱気流のことを考えると23~26日は風圧は相当厳しく、「風」による遭難の可能性は極めて高い。

 第2図bは1984年2月10~20日の同様な気気、温圧のグラフで、植村直己遭難当時のものである。気温は40-℃で相当低いが、風速は10m/s程度であって遭難の最大原因か気象であったことはこの場合考え難い。

 私自身は1983年12月から1月にかけて、ロンブクBCからチョモランマ(=エベレスト)頂上を目指し、とくにBCにおける気温や気圧と、頂上の風速の間に相関があるか否かに着目した。第1図から見てBCの気温が徐々に下り、その後急激に気温、気圧ともに上昇すると、頂上ではその数時間後から1日後あたりに強風が吹き出している。第3図はこの時のBCの気温と、300mb(9350メートル相当)高層天気図から求めた頂上の気温および風速のグラフである。雲の流れ等も加えて私は12月7日、13日、15日、16日に頂上では強風が吹かないと推測した。そして16日には、4名によりエベレスト冬期第3登がなされた。

 ただし、この相関はあくまで経験的・現象論的なものであって、マッキンリーでも成りたつかどうかは不明である。今後、たとえばマッキンリー頂上で冬期の風速観測を実施し、BCにおける気温変化との対応などとって見たいと考えている。

(中村純二)

報告

冬季マッキンリーの登山と気象遭難(3)

 〔質問〕植村直己の遭難は気象遭難ではなかったのか。

 〔安田武氏(武庫川女子大教授)の説明〕
 植村直己は当時デュポン社の新素材を用いた肌着と防寒着を着用していた。これら新素材は低温室では十分な通気・保温性を示したが、これに風が加わったりすると、肌着の撥水性や、防寒着の大きい通気性が禍して、汗などがウールに吸収されることなく、防寒着の外部に出て氷結し、その結早透湿性や断熱性まで低下し、内部まで氷結することも起ったようである。彼は日記にも今回は寒くてしようがない。寝ていても寒いと記している。遭難の第一要因は着用衣システムの不具合にあったのではなかろうか。

 〔広瀬潔氏のコメント〕
このように科学者と登山家が一堂に会して話し合うのは意義のあることだ。唯一点、会報543号に記したように、遺体発見の場所や伏況から判断して、滑落はデナリパス付近の稜線上ではなく、西側に少し下降した地点て起ったと考えられる。

4.冬期マッキンリー峰の遭難と気象
                                     日本気象協会 ・奥山崇氏

 2月21日、山田隊のテントに立寄り雪洞の位置を聞いて下ったオーストリア隊の報告によれば、翌旦3350メートルの自隊のテントから、、山田隊がテントを修理しているのが見えた。また23日の朝は晴間もあった由である。 これらの点から山田隊は23日にアタックの行動を起し、その夜から翌日にかけて遭難した可能性が大きい。26日まで山頂付近は猛吹雪であったようだが、24日以降吹雪をついて行動を起したとは考えられないからである。

 この前後の模様をフェアバンクスとアンカレッジの500mb(5700メートル相当)の高層天気図から調べて見た。
2月14~20日はブロッキング高気圧の真中にあって、好天弱風であったが、21日以降、高気圧は弱まりつつ東進、マッキンリー付近は次第に風が強まってきた。23日の地上天気図によれば、午前中は未だ高気圧圏内にあり、C5付近では気温も高くなく、-35℃位、風速は15m/s程度で、晴間位でていたかも知れない。

 その後温暖前線が接近してきてくもり、山中では才-ストリア隊の記録のようにガスとなった。一方風向はSW→W→NWと変化し、風速も次第に大きく23日午後遅くから夜にかけてはNWの風30~35m/s気温は-25℃となった。ただし風速は自由大気中のもので、デナリーパスでは西方に尾根が張出しているので、北西からも南西からも容赦なく強風か吹上げてくる上、周囲の岩稜的地形の影響で風速差の大きいシアーを生じ、突風の瞬間風速は倍の60~70m/sにも達したものと考えられる。発達した低気圧はベーリング海峡を通って北東進し、25日、26日ともSW25~35m/sの猛吹雪となっている。

 アラスカの冬は大体周期3~5日で低気圧や谷が通過し、その度ごとに強風低温の悪天がくり返される。しかも風の強弱や気温の変動幅の大きいのが特徴である。たとえば2月23~24日の風速は20~40m/s、気温は-37→-22℃。 従って登山期間が5日以上の場合、十分極端な状況にぶつかる可能性がおり、警戒を要する。

 冬期の風について、500mbの風速をアラスカ、ヒマラヤ、ヨーロッパ、日本について比較してみたところ、平均値は日本の輪島が少し大きいだけでほぼ一致した。しかし個々のデータのばらつきはそれぞれ異なり、輪島が最も大きく。次にアラスカ、そしてヨーロッパは最も少なかった。これらの遣いはその上にある寒帯前線ジェットや亜熱帯ジェットの影響によるもので、年によっても差がおるが、マッキンリーの場合、いったん荒れだすと風速・気温ともに平均値から大きくはずれ風向も定まらないという特微がある。
これに対しヒマラヤは8000メートルであるため厳しくなり、日本は3000メートルであるため最悪条件をまぬがれているといえよう。なお山田隊が遭遇した2月23~24日には強風軸の北側をあいにく気圧の谷が通るという。
風速を助長するようなケースに相当していた点もつけ加えておきたい。

参加者(順不同)  岡野修、徳久球雄、千葉重美、小野里英次郎、川島栄三郎、渋谷千秋、奥野道冶、中村純二、中村あや、渡辺恒美、渡辺玉枝、広瀬潔、浜口欣一、鳥居亮、大塚玲子、高橋詞、今西寿雄、大塚博美、橋本行雄、鴫原啓佑、笠井篤、松田雄一、奥山巌、園山鋭一、園山崇子、的場大祐、大井正一、安田武、原謙一、大蔵喜福、平井拓雄、鴫原一男、大島輝夫、石川弘、松丸秀夫、藤田礼子、織田沢美智子、赤松光、森武昭、石井恵美子、松村潤、須藤節子、早川瑠璃子、田中京子、川合愛子、梅野淑子、水本哲、関口令安、仁平祐紀夫、神長幹雄  以上50名。

 (中村純二)

山545(1990/11月号)

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