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公益社団法人日本山岳会

科学研究委員会の設立まで

初代委員長・中村純二

 科学とは特定の対象領域に関する実証的な学問の総称であって、狭義には自然科学を指すが、広義には社会科学や、精神・文化面にわたる人文科学等、科学全般に含むものである。山の科学は対象領域が山の自然に始まり、登山や山地住民・山地の文化・歴史・宗教に至る極めて広範囲な学問である。

 日本山岳会定款第三条「目的」の項をみると、「本会は山岳に関する研究、知識の普及および健全な登山指導、奨励をなし、あわせて会員相互の連絡、懇親をはかるとともに、登山を通じてあまねく体育、文化ならびに自然愛護の精神の高揚をはかることを目的とする」(下線筆者)と述べられており、山の科学の研究や啓発を通じて、精神の高揚を図ることが、登山と共に重要な目的となっている。

 当会の七名の発起人も、それぞれが山の科学に深くかかわっていた。小島烏水は地理学者志賀重昴の影響を強く受け、高頭仁兵衛は自著「日本山嶽志」において地文・人文や、外国の山々までよう触れている。城数馬は山草会会員であり、高野鷹蔵・武田久吉・梅沢親光・河田黙は共に日本博物学同志会のメンバーであった。

 また創立当時の多くの会員も、登山と共に、科学的調査や採集、さまざまな文芸活動など活発に行って、クラブとしての活動を支えてきた。

 しかし一方では遭難事件も次々に起きてきた。暴風雪の中の松尾峠の遭難、剱沢における雪崩遭難、日高で北大の遭難、戦後は富士山吉田大沢における三大学の雪崩遭難、西穂高岳での落雷事故、さらにヒマラヤでの雪崩遭難や高所障害など枚挙にいとまがないほどである。

 これらに対処するため、本会でも図書委員会が科学関係の文献を集めたほか、高所登山委、遭難対策委、医療委が立ち上げられ、自然保護委、指導委も加わって、その対策にあたってきた。各委員会では気象庁や雪氷学会、医学会等から講師を招き、気象に関する講演会、ヒマラヤの気象シンポジウム、何回かの雪崩シンポジウム、高山病、凍死・凍傷報告会、雨具シンポジウム等を開いた記録が見られ、熱心な討議も行われてきた。

 しかし本会としては、総合的に広く「山の科学」に対処し、プロジェクトによって積極的に研究を行うような委員会があってもよいのではなかろうか。このような西堀栄三郎会長の考えに基づいて、1979(昭和54)年3月、「科学研究委員会」が発足することになった。

科学研究委員会の設立

 科学研究委員設立の理由は次の四項目に大別される。

1)登山者自身による調査と実施体験
2)登山を通じての探索の喜びや充実感の獲得
3)山の科学の文献の収集
4)会員相互の交流の促進

1)については、例えば雪崩に関して、内外の専門家によって、その分類や成因の分析、対処法の研究がなされ、データも年とともに新しく正確なものになりつつある。しかし登山者にとって最も要求度の高い知識は、雪崩の予知と、初動捜索に関するもので、これらは実施にフィールドで体験し、訓練を重ねるのでなければ、有効な遭難予防にはつながらない。

2)については、山に登っても写真を撮って帰るだけではあまり意味が無い。気象・動植物などの自然や、歴史・環境などに関心を持ち、知識的意欲を持って山に入れば、より大きな歓びや充実感が得られるのではなかろうか。

3)の文献については、図書室の蔵書は素晴らしい内容で、当会の存在意義の基ともなっているが、山の科学の立場からみるとき、必ずしも十分とはいえない上、科学は日進月歩しているので、絶えず更新していく必要がある。科学の成果は記録して、これを次代の人々に確実に伝えることが出来る点に大きな特色があり、その点でも重要な文献の収集は必要である。

 当委員会では、多岐にわたる各専門分野の文献をアンケート形式により、非会員の専門家も含め、二百名近くの方々から推薦してもらった。その集計結果の一部は「山岳」第八十三年に発表されている。これらのうち、2005年末現在でもなお在庫になっていないもののリストは科学委員会の編集になる「科学委員会史2006年」中「山の科学文献目録」に掲げられている。これらも今後、順次図書室に整備されていくことが望ましい。なおこれまで、日本雪氷学会や国際山岳協会とも連絡をとり、創刊号からの互いの会誌を、本会との間で交換してきている。

 ここで委員会名が「科学研究委」でなく「科学委」となっているのは、以下の経緯によるものである。
当委員会は1)に概述のように、登山者自身による調査・研究も目指て発足し、後述のように「マッキンリーの気象観測登山」や「自然エネルギー利用」の研究も行ってきているが、実績は会員に対する知識の普及や啓発の活動が主で、本格的な科学研究は、やはりしかるべき大学や研究所でなされるべきであることが明らかとなってきた。そこで、1995年「科学委員会」と名称を変え、現在に至っている。

 4)の会員相互の交流については、当会の発展期には、アルピニズム最前線の会員を擁し、会員数も限られていて、互いに意志の通ずるクラブ的存在であった。しかし、マナスル登頂を境に、わが国での登山熱は高まり、各地の山岳組織活動も盛んになると共に、当会でも会員数が急増して、会員相互のコミニュケーションが十分とはいえなくなってきた。これに対し、科学的関心には共通性が見られる。低圧室を備え、島岡助教授はじめ、専門家のいる名古屋大学で、低圧トレーニングや高所登山の講演会などをおこなったところ、この時は、北海道から九州までの参加者も顔を見せ交流の実が上がった。

―――中略――― 
 おわりに

 登山とは技術や体力、年齢などに関係なく、歓びや心の昂揚を覚える行動であると考えられる。各会員は積極的に委員会活動にも参加し、自他共に山の奥深さや神秘性など味わえるよう、行動していただくことを期待するものである。科学委について付言すれば、そこはけっして諸科学専門家の場ではなく、誰もが「山の科学」を知り、会員相互の懇親や山の楽しさに浸るとともに、生涯にわたって偉大な「山」から教わり続ける場所でもある。同好の士に集まっていただき共に所期の目的に向かって努力を続けていきたく願っている。

日本山岳会百年史(続編)
「山の科学と日本山岳会」より

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