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公益社団法人日本山岳会

中央分水嶺踏査

 1998年、近藤善則委員による談話会、「大分水嶺に高山植物を訪ねる」において、列島中央部を走る分水嶺が、風土や文化を二分し、水利係争まで惹起していることを考えると、分水嶺踏査によって日本を見る目が広くなる点などが認識され、委員等は新しい眼で、湯ノ丸山の高山植物を探る旅や、馬坂峠-帝釈山-田代山湿原の調査行などに出かけた。こうした分水嶺に対する関心をベースにして、科学委員会の提案により、百周年記念事業委員会は、2003年10月、登山委員会の事業の一つとして、科学委員会選出の石田要久理事を委員長とする「中央分水嶺踏査委員会」の設置と、同踏査計画を実行に移すことを決定した。

 この踏査計画は、全国支部会員の多くが参加し、宗谷岬から佐多岬に至る日本列島の中央分水嶺を調査し、GPSによるピーク、峠の標高や位置の測定を行うものであった。

同時にNTTドコモの衛星通信サービスを利用しての、陣馬山頂と当会ルーム間での画像・音声の伝送テストを行っ
たり、GPSの使用方法の講習会などを実施した。

 日本の中央分水嶺の大部分はヤブであって、積雪期でないと通過できなかったり、立入禁止の個所は交渉の上、許可日にしか踏破できなかったり、悪天時の露営や、ヤブコギによる時間超過のため水不足に苦しむ等、さまざまな困難もあったが、各グループそれぞれが、自主的、積極的にこの事業に取り組み、登山の原点に立ち返って真の登山の充実感を味わいつつ、事業の目的を達成したことは誠に喜ばしいことであった。

 GPSと地形図の間の系統的な誤差の論議などは、事業の報告書に譲るが、科学委員会の提案から始まったこの活動が登山の楽しみや、支部内の結束、さらに全国共通の話題についての会員間の交流の可能性まで深めた点は、何より素晴らしいことであった。

中村純二 
日本山岳会百年史(続編)
「山の科学と日本山岳会」より抜粋


中央分水嶺踏査の記録
 中央分水嶺踏査 日本山岳会ホームページ
 日本列島中央分水嶺5000キロ踏査の記録 山岳102(2007) 福山美知子
 「中央分水嶺踏査」
 ---会報「山」にみる経緯と記録
中央分水嶺踏査 実行委員会
 科学委員会踏査:田代・帝釈(2005/10) 山716(2005)向野暢彦

中央分水嶺踏査・関連報告
 地形図と地質図からみた分水嶺/織方郁映 山717(2005/2月号)東西南北より
探索山行 「大分水嶺に高山植物を訪ねる」
 2000年(平成12) 7月1日-2日
 地域:地蔵峠-湯の丸山-(宿)-高峰温泉-篭 の登山
 宿泊:地蔵峠「ロッジ花紋」
講師:近藤善則(委員)「中央分水嶺について」
柳沢孝(ロッジ花紋)「湯の丸の高山植物」
参加者:40名 報告:山664(末廣担)
 談話会「日本の分水嶺」
 山岳会ルーム
 1998年(平成10)  2月19日
講師:近藤善則
参加者23名 報告:山636(福山美知子)
 分水嶺雑学/ 近藤善則  

分水嶺資料集
 分水嶺踏査ポイントNo表 全踏査ルートの主要ポイントに連続ナンバーをつけた。
 分水嶺ポイントNo対象表 担当地域の「山」、「峠」の該当ポイントNo
 分水嶺通過市町村 分水嶺が通過または接する自治体
 分水嶺踏査記録 踏査の報告書は、JAC-HPの資料室または報告書の添付CD-ROMからごらんください

 

日本山岳会百周年記念事業

日本列島中央分水嶺5000キロ踏査の記録

福山美知子

稜線に立って山座同定に余念がない岳友たちの様子を見ながら、いったい山国ニツポンにはどれほどの山名があるのだろうかと考えたことがある。そして木曾の「越百山」には、百の峰々を越えていかなければ辿りつけないという言い伝えがあるのを知った時、思わず日本列島中央分水嶺の踏査で、我々は幾つの嶺を越えて来たのかと振り返ったものである。
 この踏査は、日本山岳会が創立百周年記念事業の一つとして進められた。北海道の最北端・宗谷岬から、九州の最南端・佐多岬に到る全長約5000キロに及ぶ分水界上に、三年余の歳月をかけて足跡を残して来た。平均年齢六十余歳という山岳会員達は未知の山域に挑むパイオニア精神を思い起こし、相互の絆を強めながら遂に列島の分水界を歩き、一本の線で繋ぐという夢を実現したのであった。

 今日、「分水嶺」という言葉は社会生活の色々な場面で比喩的にも使われているが、もともと地表に空から降った雨水や雪解け水が地表を流れ或いは地中に浸透しても、いずれ川となり幾本かの川が合流して海へと流れ下る、その方向を分けているものである。かの山岳紀行『スウィス日記』を遺された辻村伊助氏が若き日、槍ヶ岳から連なる東鎌尾根に立ち、北は高瀬川、南は梓川に導く源の、その薄き境に驚き、そこで南北に別れてアルブスの渓間を旅する水の行方に思いを馳せておられた。分水嶺歩きはどんなにか山旅を心豊かにしてくれることか。この言葉の響きが詩情を誘う所以であろう。

 さて、日本列島を取囲む水域をみるとき、東南側はオホーツク海~太平洋、北西側は日本海~東シナ海であり、列島の地形によってただ低い方向へと流れはじめた水も、いずれはこの二つの水域に流れ入る。ゆくゆく太平洋に流れ出るか、はたまた日本海側への旅路をとるか、そのおおもとを決めているのが「中央分水嶺」であり、人々の生活や文化と密接に関わっていて、さまざまな魅力を秘めた境界へ我々は踏み入ったのであった。

 しかし、いざこの中へ実際に踏み入ってみると、決して大げさに言う訳でなく、分水嶺にあたる稜線のほとんどに登山道はなく、人の立ち入っていない未知の山域が多く、道なき道を往くものであった。行く手を遮る藪との格闘を強いられ、否応なしに開拓者魂を高揚させられる。言い換えれば、日本山岳会の目指してきたパイオニア精神を、おのずからに発揮する活動の場となったのである。そして何と言っても北海道支部から九州支部まで全国に会員を擁する組織であるからこそ、成就し得た踏査であったと言える。

 一、実施にいたるまで

 それは20世紀最後の年のこと、やがて迎える2005年10月に迫った当会百周年を記念するに相応しい事業の提案を促されていた時期である。科学委員会は、委員の近藤善則会員が日本列島の分水嶺に興味を持ち、個人的に長年かけて蓄積してきた全国土の中央分水嶺に関するデータを前にして、この踏査を記念の企画として何とか提案したいものだと思い議論を重ねていた。そして2001年11月、中央分水界を地方別に区切って、全国の会員が同時進行の形で踏査を進めていくという素案を提出した。これが承認され、2003年6月、「中央分水嶺踏査委員会」は発足した。

 この事業は全国の会員達の参加協力なしには達成不可能なものである。分水嶺踏査委員会は、何はさておき全国支部長会議などの事ある毎に、或いは機会を設けて、地方支部の方々へ企画内容をご説明し意見交換を行なった。

 正直なところ、事の始まりから全面的な賛同が得られた訳ではなかった。実情をいえば・・・かつての山の兵も年齢を重ねている、道なき道を往く苦難の分水嶺歩きである、全域を線で結ぶことは無理・・・という訳で、出来るだけの範囲という方針で動き始めたのであった。

 担当区間の設定と地形図

 登山道のない人跡未踏の山城については当然のこと、これまでに山行記録も、ガイドブックに載るほどの山も少ない区域では、情報は地元でしか人手できないものが多いから、担当区間を決めるに当たっては、出来るだけ各支部の活動地域を基準にし、アプローチに際しての車利用の事情を考慮に入れた。しかし結果的には不均衡が出たことは否めない。首都圏同好会の場合は、住居地と山城が離れているための苦労が加わった。北海道支部の場合、約1OOOキロの大きな負担を心配したものの、即座に「必ずやり通す!」の頼もしい宣言が得られたことは、全体に対する大きな推進力になった。

 支部の地域内に中央分水嶺が通っていないところは、静岡支部、東海支部、北陸の富山、石川支部である。隣接支部の応援の形や一部担当の形で参画し、全25支部の足並みが揃った。

首都圏関係は16の同好会と科学委員会が参加した。

 最終的には、委員会案をもとに県境が分水嶺線上にあって稜線を共有する場合など、隣接の支部間で調整も行われたが、これら区間とそのアプローチに関係する地形図は、国土地理院発行2万5千分の一図が総数で590枚に達した。後出のGPS受信機と同様に本部の負担で一括購入して配布した。

 踏査登山計画書の作成

 2003年8月、寄せられていた多くの意見をいれて、踏査委員会は「計画書」を作成した。そこでは山岳会の現状を踏まえて無理のない範囲で、一つの旗の下に出来るだけ多くの区域を、なるべく多くの会員で踏査することを目指すものと謳い、実際の踏査にあたる区間を難易度によって次の三段階に分類し実施は担当者の事情に任せる形にした。

 A 登山道が整備されていて、あまり困難を伴わない区間
 B ある程度の藪漕ぎや、ザイルの使用により、なんとかいけるであろう、或いは積雪期なら可能であろう区間
 C とても歩行は困難な区間

 踏査内容は、多くの会員が参加できる記念事業に相応しい在り方を考えて検討の上、参加者に出来るだけ負担をかけないように、最低限の内容に絞られた。

 列島全域を北から南へ、以下のような四ブロックに区分し
 H 北海道 ---宗谷岬~白神岬(北海道ブロックのみ)
 E 東日本 ---龍飛崎~権兵衛峠(長野県)   青函トンネル、東北、関東・甲信越ブロックを含む
 W 西日本 ---権兵衛峠~関門トンネル門司側
 K 九州  ---関門トンネル門司側~佐多岬

 地図上の山頂、峠、三角点などのチエツクポイントを決め、通し番号(例:H001~H245)を付けた表を作成した。
 各ポイントにおいて調査確認して記録すべき事項として次のような項目を掲げた。

 *分水嶺(分水界)上の右のポイントにおいてGPSを使用し経度、緯度、高度を測定し位置を確認
 *三角点の位置と保存状況を観察
 *人工施設の現状及び地形図との相違点(登山道、地名)
 *水、植生、地形、その他の観察

 あらかじめ書式(EXEL)を統一したA4判報告用紙を、一回の山行について一枚提出して頂くこととした。
 ポイント数はH=245 E=659 W=678 K=253 である。ポイント間の平均距離は約2.5キロ。ちなみに三角点の数は約950である。  

 二、いよいよ踏査実施へ

 2004年2月、上記計画案は最終決定をみて本格的踏査開始の4月を迎えることとなる。

 予備的登山と現地調査始まる

 担当区間が決まり、各支部では本部から届いた地形図の整理に始まり、それぞれの事情に応じて文献調査、市町村への照会、或いは森林管理局にも当り必要な情報収集にとりかかった。
 各支部はそれぞれに註画をかため、踏査のための組織を編成し、調査山行に踏み出した。出発式、キックオフ大会などと呼び方は異なっていても、各地で硬い握手を交わした参加者たちの眼は輝いていた。

 日本全土総踏査距離の約五分の一を占めるうえ、積雪期内の踏査が大きく見込まれる北海道支部は、2004年、年初から開始。また、県境縦走の経験があった秋田支部は全国の支部に先駆けて動き始め、報告書第一号を早くも2003年9月末に提出した。
 こうして弾みがっき、当初の「出来る範囲で」の気分は、次第に全区域完遂意欲と期待へと高まっていった。

 シンポジウムを開催

 踏査実施に先立ち、国土交通省国土地理院の後援を得て、2004年の2月、「中央分水嶺踏査について」と題するシンポジウムが聞かれた。地理院の前院長、星埜由尚氏、この踏査の提唱者であって分水嶺踏査委員の近藤善則氏、すでに分水嶺の調査山行に歩を進めていた北海道支部の新妻徹支部長、さらに版を重ねている「日本の分水嶺」の著者、堀 公俊の各氏が講演。各々の立場から話題は、幅広い、奥の深い分水嶺踏査の意義や魅力、そして実際上の苦労にまで及んだ。一般の聴衆から興味ある発言も多く出て活況を呈した。最後に会長の平山善吉氏が、「事故無しで完遂を」と結ばれ、踏査への熱い期待を寄せられたことが、今なお記憶に新しい。

 GPSの講習会

 踏査計画を立てるにあたり、科学兵器とも言うべきハンディGPS(全地球方位測定器)受信機を活用することにした。これは現在位置をリアルタイムで測定表示するほか、目標地点との位置関係などを表示するナビゲーション機能、測定位置を連続線として表示する軌跡機能なども有している。全国各支部に一台ずつ配布し、本部で説明会を開き、市街地に出て実習も行った。習熟するための充分な時間がなく機能をフル活用したとは言えないが、踏査地点の正確な記録ができただけでなく、登山道のない藪こぎ地帯では現在地の把握に大いに役立てられた。

 衛星通信(ワイドスター)の利用実験

 2004年3月に(株)NTTドコモの協力で、東京近郊の陣場山~山岳会本部の間で、音声と映像の伝送を試みた。そして、2004年10月、奥秩父山系の国師岳を発信場所に、熊本市で開催中の全国支部懇談会会場を受信場所とした実際の状況伝達を行った。いずれの場合も、音声は辛うじて聞き取れるものの映像の方は静止画像が長く続き、リアルタイムでの状況伝達はまだ無理な様子で、分水嶺稜線上など携帯電話の通信不能な傾城で利用するのは、後年に待ち越されている。

 三、分水界の道すじ、道の状況

 中央分水界は、ほぼ列島を縦断している脊梁山脈に沿っている。とはいえ、日本列島はただ一本の単純な島弧ではなく六つの島弧のつながりから出来ているので、島弧の接合部分では太地形の配列が複雑になっている。そのため、「山高くとも中央分水嶺に非ず」というわけで、富士山も、日本アルプスは飛騨、本曾、赤石の三山脈ともに中央分水界とは無関係である。最も高い山は、北アルプス南端の乗鞍岳3026メートル、最も標高の低い分水界は、本州の中では、兵庫県内、福知山線の通っている石生地区(95メートル)で、太平洋側は加古川、日本海側は由良川へと水系を分けている。日本全士でみると最低地点は北海道内、千歳空港滑走路上の20メートルである。

 この後者は立入り禁止区域である。他に、噴火中の浅間山火口周辺も同じく立入り禁止。その他では、天然記念物に指定された植物の群落、国立公園法による特別保護区域の一帯、これらの已むを得ない区域はその境に沿って外縁を廻り踏査に代えた。こうして全分水界を歩き通すことができた。

 人里遠い山稜にどのようにとりつくか、時間が許されれば、主要河川を遡行して源流をたしかめるのも興味深いルートであるが、担当支部は諸事情に応じて調査工夫をこらし、最も適当な道をとって、稜線到達点から離別点までの位置確認や、その他の調査事項の記録に努めたのである。

 図1には、各ブロック別に、登山道のある割合を示した。全国平均で25.9%という数値は、いかにこの踏査が厳しいむのであったかを物語っている。道がないということは当然のことながら道標もない。「取り付くしまもない」とは、或る支部が地図を広げて調べ始めた頃の印象として記した言葉であるが、稜線へ辿りつく手がかりを得ようと、地図を広げる畳むを繰り返すうちに紙が擦り切れてきた、とある。

 踏査さまざま

 予備調査通りいつも順調にいくとは限らなかった。最終報告書には綴られている。

 「山深ければ、鬱蒼とした樹林帯と背丈ほどの藪の中を進むのは勇気の要ることである。リング・ヴァンデリングに気付きどっと疲労を覚える。」

 「支尾根が幾つもあったり、分水界の尾根自体が明確でない時、陽は高くともお先真っ暗、高い木々の中、或いは背丈を越す蜜薮となると見通しが全く無い。薮の薄い方へと迷いがちになるのも人の性。そんな折は特に頼もしいGPSのお世話になった。」

 「時に特殊技能者も出現。皆の難渋を見るや、やおら只独り傍の高い本に攀じ登り、掌を翳して辺りを見まわして、取るべき往く手を指差してくれた玄人…」

 さらには、「折も折、思いもかけない刈り払いされた稜線などに出ようものなら、それこそ宝くじに当たったような気分になった」とあるのも、うべなるかな。また、「藪を抜け出た特には思わず深呼吸、互いに顔を見合わせ、安堵感を味わったむのであった」とも綴られている。

 地元で「熊の棲」と言われていて熊の糞の散見する藪の中を呼子を吹きながらの踏査もあった。「熊に注意」の札が立ってないからといって油断は出来ない。親子熊に出くわして睨めっこ、踏査は止めて引き返した話。熊の臭いは物凄く生きた心地がしなかったとのこと。時には足あとに気づいて身構えた!・どうやら熊の方が遠慮してくれたらしいという話も。

 鹿さんの安住の地も歩かせてもらった。山奥の動物達は慣れない出来事に戸惑っていたのかもしれない。

 マムシが鎌首をもたげてくるは、スズメバチが飛び交うは。 まさにそこは野生の世界、彼らがお休みする時期を選ぶこととして、お目見えはご遠慮申し上げた。

 踏査に当たっては嫌われ者の極みである藪ではあるが、植生の専門家から、これが表土の浸食を抑えて、大切な尾根筋を守り、森の緑を支えるという大変な効用を持っていることを、後になって教わった。兎にも角にも藪を掻き分け掻き分け、喘ぎながら抜けてみれば、馴染みの登山着は破れ箇所が目立ち、皮膚には掠り傷、眼鏡をとはされた人もあった。藪こぎ用ゴーグル、手袋の差し入れもあったと聞くが、なんとかこの手強い藪から宝物を掘り出した。こうして手に入れた宝物こそ分水嶺踏査なのであった。〈苦しきことのみ多かりき〉の藪こぎではあったが、或る医師の会員が発した「いやあ、ここは俺よりひどい藪だあ!」の言葉に、時を移さず藪の中に涌いた笑い声、いつまでも語り草になっている。藪談義になれば、各支部ともに話は尽きない。

 藪と同時に難渋したものに倒木かある。豪雨、台風で膨大な被害を受け、スギ、ヒノキの風倒木が多く放置されたまま稜線を塞いでいた。マツ喰い虫の被害で枯死した木々も然り。
 山中には一般登山では窺い知れない葛藤の場が隠されていた。

 一方に、激しいアップダウンや痩せ尾根が続くなど、強い気構え、高い技術も必要とする区域があった。北海道、道南地区の割岩と呼ばれる巨大な岩場とピナクル。地形図には現われない10メートル前後の壁が連続し1日に1キロしか進めない難所など、それらの写真からは、直に日本山岳会の力量が窺えるというもである。九州の脊梁山地にも、秀麗な山容のかげに急峻な尾根があり、鋸尾根と呼ばれる峨々たる岩稜の続く尾根などに、若手の精鋭が挑戦した。潅木に頼り体を引き上げながら急登した日のことを思い出す人も多いのである。

 少々毛色の違う区域がある。首都圏同好会が担当した群馬県北部、日光国立公園の中を通る分水界の踏査は、特別な規制のある区域の踏査であった。第一種特別保護区域にあたり、一木一草、石一個にいたるまで現状変更をしてはならないとある。
登山道は分水嶺線上微妙に外してつけられている。登山道を外れて藪こぎをするなどはもってのほか、積雪期以外に現場に立ち入ることは許されない。夏道が出ている時期と積雪期に試行錯誤を繰り返した踏査の報告となっている。

 同時に真の分水稜線を傍から見据えながら歩き、実態を明らかにするのも一法と考え、記録をとったグループもあった。

 「忠実に分水嶺上を歩くことを基本とする」と申し合わせて、東九州支部は大きな岩が突出して連なる岩稜も岩を上り下りして進んだ…そのすぐ近くに楽に歩ける道は通っていても、あえてスズタケに雪の積もった稜線をラッセルして進んだ。しかし、区間内の国立公園法による特別保護区域では自然への配慮を忘れていなかった。

 環境省自然公園指導員、日本高山植物保護協会員のいる同好会も百周年記念事業とはいえ、貴重なガンコウランなどの咲く一帯を踏査空白域として残したことは言うまでもない。

 概ねおだやかな地形、自然崩落や伐採の跡も見られない、静寂の稜線に立ち、霞の彼方まで果てしなく続く分水嶺の山並みを望む時、日本が山国であり、国土の70%が森林に覆われていることをつくずく思うのである。地図の上には、樹林の記号ばかり、地名も山名も極端に少ない一帯の姿には、誰の言であったか、日本の原風景を見る思いとあった。

 並大抵の苦労ではなかったが、人と出会うことも無い静かな山行ができて、原生林に覆われた峰々に自然のもつ奥深さが感じとれる所まで分け入ることになった道すじである。

四、踏査山行の時期 -分水嶺の四季-

 山行時期の選択は踏破完遂への大切な鍵であった。
 冬季はアプローチが難しい。アクセス道路が途絶されるところは多い。風雪の強い地帯の道路は常に落石、崩落の危険に晒され、頻繁に通行止めになる。

 藪山の稼ぎ時は、藪が雪の下でおとなしくしている春だ。残雪期の豊かな雪量に期待がかかるが、予想よりも雪融けが早くて能率の上がらなかった年もあった。麓に大雪があり、林道入口の雪融けを待って入山してみれば、分水嶺上は一足先に雪が消え、すでに藪化かすすんでいて苦労させられた。除雪されていなければ稜線に到達するのに時聞が多くかかる。

 地形に因っても両者のバランスは変わる。天候不順もある。
地形などをも考えあわせて担当者は計画を練った。

 夏、森は鬱蒼と繁り、道なき道は藪の天下である。
 秋、木々の葉は落ちて、見通しが良くなる。紅葉の楽しみもあり、藪とわかっていても暑い夏より入りやすい。

 次の月別統計表は、地域によって踏査時期に多少の差かある様子を示している。

 五、分水嶺と人間の暮らし

 こうして分水嶺踏査を進めて来た中で、分水嶺という境界は、地形的にただ水の流れを決めているだけではなく、我々の生活と深い係わりをもち、長い歴史を秘めていることに、あらためて思いが至った。

 整理すれば、分水嶺を境にして次のような相違、問題があると言える。

 一、気候、地形、風上の違い、植生、林相、動物の種類、景観など自然そのものにみられる相違。
 二、生み出された風俗習慣、言葉、食文化などの違い、ひいては歴史、伝承などを含む人文系事象の違い。
 三、行政上の境界から地域社会の形成、そして境を越える交流、その峠道の盛衰、水利権などの社会的問題。 

峠と歴史

 分水嶺稜線にとりついた峠、一山越して通った峠、この峠の語源というと、山の鞍部の擁(たわ)んでいる部分をあらわす「タワ」から転化したとか。愛着ある峠の資料は数知れない。

 ちょっと道草になるが、「峠」という字は和製の漢字である。実によく出来ていると思う。山偏に旁は上り下り。漢字の母国、中国の地形では、我らが分水嶺に見られる規模の峠は少なく、意味をもつ字が生まれるほど身近なものではなかったかもしれない。「峠にさしかかる」とか「やっと峠を越えた」などと、日本では日常的に使われているのも、かつての頻繁な往来を語っており、日本の峠は物語に満ち溢れている。

 今では峠道が立派に舗装され、或いは下にトンネルが通されて、車で簡単に峠越えができる所も多くなっている。それだけに分水嶺という自然の境界線が、気候風土の違いを生み、動物植物の分布や地形地層の境界を形づくり、かつて両側に独自の文化や習俗を育んできた峠が峠として機能していた古き良き時代を、これを機会にゆっくり再認識したいものと思わせられた。

 踏査活動の過程では、藪山を越えるのに精一杯で、峠にまつわる事象を存分に調べるはどの余裕はなかったものの、最終報告書に載せてある幾篇かの余話から、峠の今昔が窺えるというものである。ご一読を乞いたい。

 「中央分水嶺と街道が織りなす峠の歴史模様」  岩手支部
 「分水嶺踏査 発祥の地? 地蔵峠」     科学委員会
 「峠の今昔 野麦峠~鳥居峠~権兵衛峠」    東海支部
 「福井の山々と水 冠山峠、油坂峠」      福井支部
 「天狗党が越えた蝿帽子峠」          石川支部
 「峠と山と湖 ガラメキ峠」         東九州支部
 「分水嶺の峠 不土野峠、湯山峠、横谷峠」   熊本支部
 因みに、周囲が128キロもある阿蘇外輪山の内と外とを結んで「二十七越四十八峠」と呼ばれるほど多くの峠があるが、分水嶺を越す峠が10くらいもあると言われている。

六、分水嶺のいろいろ

 地下に隠れた分水界

 北九州支部担当地域の南端、平尾台はカルスト台地である。
台地の北西縁と、自治体の境界を辿る南東縁の何れが分水嶺かということになった。学問的見解によれば、カルスト台地には地表水系がなく地下水系を形成しており、分水界は地表の地形とは無関係に地下にある。つまり平尾台には分水界はあっても分水嶺は存在しないとのこと。さて、踏査の方は、地形と高度から北西稜線を分水嶺として扱うのが妥当とする支部の判断に従って、そのルートで行なわれた。

 これを機に、地質構造の影響を受ける地下水系は地表水のそれとは必ずしも一致せず、その正確な位置が判明しているところは少なく、調べるために使われる科学的な手法の中には、電解質や色素、放射性同位体のトレーサーを用いることなどまで教えられた。

 青函トンネルと関門トンネル

 北海道南端の白神岬から本州津軽半島北端の龍飛岬までの間も、青函トンネルの位置で中央分水嶺は海底山脈として連結している。踏査が始まっていた折も折、首都圏の某会員は《北海道新幹線着工記念・青函トンネルウォーク》の開催を知り、2005年8月、独自にこの催しに参加していた。そのトンネルウオークの記録加最終報告書に、津軽海峡海面下の足跡として載せられている。

 かたや、関門海峡で隔てられている本州と九州の間は、すでに1942年開通の鉄道トンネルをはじめとして、高速道路用吊橋の関門橋、新幹線鉄道トンネル、そして自動車道と人道が併設された関門トンネルという4本の交通動脈が通っている。
この関門トンネルの歩行が許される人道780メートルを、2006年2月、北九州支部の二人が歩いて来た。
 こうして北海道、本州、九州の日本列島を貫く中央分水嶺上の踏み跡は、海面下まで一本の線で繋がったのである。

 分水嶺と流域変更

 九州の名高い景勝地耶馬渓の中を中央分水嶺が通っている。
その中に水流の行先変更が見られる箇所がある。内匠の下池に長さ20メートルほどのコンクリーートの堤防が造ってあって、雨量が多い時や非灌漑時などで池の水位が上がってこの堤をこすようになると、果ては東シナ海に注ぐ筈の水が瀬戸内海に注ぐ。詳細は原報告によって頂くとして、この部分は事前に地図上で分水界を読みとるのに苦労したとある。
 この東九州支部担当区域にもうIヶ所、大船山の北の地域では雨水で登山道が削られ、道加稜線の水の行方を大きく変えているという報告がある。いずれにしろ、人工の堤防や登山道によって、中央分水嶺の初心は曲げられたという訳か?。

 分水嶺と人工の水路、水中分氷点上の疎水も

  前例とは趣旨の違う例になるが、全国でただ1ヶ所、農業用水として他県から水を引いているのが横川堰(助左衛門堰)であると、山形支部の踏査報告余話にある。宮城県の楢川支流の沢から、水路によって、山形県萱平川の沢に水は流され利用されている。これは文政4年の藩への分水嘆願から始まり、明治14年の完成まで実に60年、標高1000メートル余の高地における難工事に執念を燃やした庄屋の名を冠して呼ばれていた。昔人の志の固さに感服し、分水嶺に関連して、かつて激しかった用水利権をめぐる争いを思い起こさせられる。

 福島支部担当の会津地区には、中央分水嶺が県境ではなく、県土のほぼ中央を南北に走っている区域がある。猪苗代湖はその西側にあるにもかかわらず、特異なことに太平洋と日本海の両方に水を流している大きな水源である。湖の北西から出て阿賀野川から日本海へ注ぐ水系と(流路の細部は報告書参照)、北東側の取水口から人工の水路である安積疎水を通り、阿武隈川に注ぎ太平洋へ至る水系かある。1879年完成のこの安積疎水は、那須疎水、琵琶湖疏水とともに日本三大疎水の一つであるとのこと。

 もう一つ、国立公園内踏査で前にあげた尾瀬沼は福島、群馬両県境の分水界上にあって標高1660メートルの水源である。その西北端から発した水は阿賀野川と合流して日本海へ自然に流れ出ているが、南縁からの水系は人工の水力発電用トンネルを通り、利根川と合流して太平洋へと通じる。この二例とも太平洋側に注ぐ流れが人工の水路であることは興味深い。

 自衛隊の演習場内を歩く

 九州の中部「阿蘇くじゅう国立公園」とその周辺は、「九州中部大草原地帯と呼ばれて人気のある地帯である。その中にほとんど人に知られていない広大な草原かある。それもその筈、ここが陸上自衛隊の演習場、古くは陸軍のそれであった。
 鉄柵に囲まれたその真ん中を約14キロの中央分水嶺が通っている。砲弾の飛び交う時間帯だけでなく、常時立ち入り禁止。
 何とか歩かせてもらいたい一心で駐屯地の窓口に通った。そして計画書、地形図、参加者名簿を添えて申込書の提出にこぎつけた。日時の調整にも苦労したが、演習場環境整備期間の2日間の踏査が許された上、「自然環境保全地域」への立ち入りまで許された。基地内のため普通なら登山の叶わない山頂にも立てた。無数の砲弾の破片の間をも歩いてきた、東九州支部の記す感激の余話である。

 許可を受けて歩いた県道、林道

 自衛隊の敷地内に限らず、関係機関の許可を必要とした区域がある。岐阜支部がお役人気質をまざまざと見せつけられたのが、ある峠を横切る県道とそれに通じる林道を使わなくてはならないのに、通行止めになっていた時のこと。県道は岐阜県高山建設事務所、林道は飛騨森林管理署に道路使用許可の申請をした。我々のこの分水嶺踏査という壮大な事業に対して、なんと想定外の返事。その時、かの今西錦司先生が会員と登山されていた昔、どんなに厳しい乗り入れ制限があっても、先生のお名前が「黄門様の印龍」であった由を思い出した。現代の代役は会員で植生調査が専門の岐阜大の先生と決まり、先生の調査に同行するということで踏査は実現した。変らない役人気質を今の峠はどう見ていたことやら・・・

 山梨支部では、担当区域に接して筑波大学の演習林があり、その管理道路の通行許可をもらって車で入った。また同区の小海線最高地点の南側はゴルフ場、分水嶺上にホテルがあって通過を願い出た。山の行動特にクラブではなくリュックを背負って、分水嶺線上を忠実に1番ホールを横切りロングホールを下ったというお話。

 熊本支部では、植林地の境の土塁沿いに進むと、森の中に口ストボールが沢山転がっていた。ゴルフ場が近いなと思う間もなくコース巡回路に出ると、すぐ上にグリーンがあった。プレイヤーは無心に、太平洋側から有明海側に向けて分水嶺通過パットをきめていた。踏査隊は拾ってきたロストボールを杖で転がしてはしゃいだそうな。眼に見えるようである。

七、分水嶺踏査と地域社会の関心

 西中国山地に「分水嶺新道」開通

 広島支部は支部を代表する藪こぎ名人を揃えて、2004年11月に、島根と広島の両県境部、西中国山地の秘境に挑んだ。
登山道はない。広島側と島根側の2班にわけた踏査は、精鋭達の名に恥じず大成功をおさめ、意気揚々と下山した。
 そこに期せずして、「ここに登山道を作ろう」という話が決まり、翌年9月に控えた中国ブロック百周年記念を胸中に、地元行政、地域のコンセンサスを得る根回しなどが始められて、両町の関係者と支部との合同会議にこぎつけたのは7月。民有林、国有林、はては国定公園にかかる地域あり、好意的な対応が得られたものの許可手続きは大変なものであった。作業の経過は報告書に詳しいが、見事な分水嶺新道が開通し、ついに9月17~18日に記念行事と道開きが行なわれた。
 日本山岳会の平山会長も、支部会員と共にこの新道を歩いて地元の人々から寄せられた絶大な協力への感謝と同時に、山岳会の事業と地域社会との繋がりを喜ばれたのであった。

 公募踏査

 踏査開始にあたり開催した公開シンポジウムで、山岳会員でない方々の分水嶺への関心の強さもわかり、公募による踏査も企画しようとしたが、山行の性質上難しい点も多いので、北海道支部と科学委員会が催行したにとどまった。しかし、踏査に要した全期間を通して、非会員の参加者数は300人余りを数え、全参加人数の約2割を越えている。

 全国分水嶺サミットと町村合併

 広島県には、山陰と山陽を結ぶ天領の町として有名な上下町(現在は府中市に属す)かおる。『備後略記』には「東より登り極めて、ここより西に下る所なる故に上下と名に負いたるなり」に続けて、はっきり東南の水は芦田川、西北の水は三次川に云々とあり、すでに分水嶺地点として認識されていたことが判る。

 中国地方の生活や文化が分水嶺を境にして違うことの良くわかる興味深い地域、と支部報告に記してある。
 こうした中央分水嶺をその区域に持つ地方自治体が全国協議会を作り、1988年から2000年にかけて、一年に一回、持ち回りでサミットを開催し、これらの市町村が共有する様々なテーマを探り、活発に語り合っていた。この企画を提案して第一回を実施したのが、次に記す兵庫県の水上町石生である。

 平成の大合併が始まる以前には、分水嶺を通過する市町村は全国で56あったが、合併が進んでもこの数にはさしたる増減は見られないものの、構成は変化し、前と同じ名前を持つ自治体は減り、サミットは13回で解散に至った。現在、分水嶺が一番長く通るのは岐阜県高山市で、驚くことには面積がほぼ東京都に匹敵し、嶺は約110キロ続いている由。市町村合併にはさまざまなドラマが秘められていることが多いが、とにかく分水嶺の通る地域の話題には興味深いものがある。

 石生の水分れ(みわかれ)公園

 本州内で最低標高の分水嶺地点であるこの地帯は、何処が分水嶺かわかり難い、ほとんど平地に近い大きな鞍部である。地元では東側に連なる多紀の山々の山裾に、この公園を作り、連なる分水嶺(最高は約600メートル)を一巡するコース「分水界展望ルート向山連山登山道」を整備している。分水嶺をテーマにした多くの資料を見ることの出来る「水分れ資料館」も設けてあり、分水嶺の広報に努めている様子がわかる。

八、踏査の進捗状況

 会報「山」に隔月で報告

 踏査登山は2004年4月から本格的に開始された。その経過報告として、山岳会の会報に列島全域における進行状況が、2004年7月号から、隔月ながら、いわばリアルタイムで掲載された。届いている山行報告書をもとに、5000キロの総延長に対する踏査終了区間距離の割合が出された。1回に載る3支部か或いは4同好会の現況報告には、各地域の特徴とともに、踏査活動の苦楽が実によく描かれ、踏査の面々の意気込みもひしひしと伝わってきた。いつも次号が届くのが待ち遠しく思えたものである。隔月掲載は2年間続けられ、2006年5月号を以って終了したが、その時点で踏査率は約95%だった。

九、フィナーレ登山

 踏査完遂時期は当初の見込みよりもやや遅れてはいたが、完遂の目途はたち、2006年6月17日に踏査委員会は、信濃支部の協力で準備していたフィナーレ山行を行なった。中山道の難所として知られた和田峠を通る、三峰山から八島湿原まで白いコナシの可憐な花に迎えられ、北海道の会員の参加もあって、総勢80人の会員達が、新緑を渡る風を心地よく受けながら歩いた。

 湿原の広場に勢ぞろいして、平林副会長から祝辞を頂き、田邊副会長の発声で打ち上げの祝杯をあげた。皆の胸中に去来したものは何であったろうか。ついに中央分水嶺5000キロ余りを一本の線で繋いだという達成感の中にも、あらためて強くなった会員相互の絆を思い、登山の原点を見たあの藪の有様が甦ってきたかもしれない。

 地方の各支部も同好会も、踏査達成の目途が立ち、それぞれ思い思いに、取って置きの区間で記念の打上げを行なった。

 藪の勢いがおさまる時期を待ち、残る難関箇所の踏査を終え、ついに2006年11月4日、列島全土にわたる踏査を完了、正真正銘のフィナーレを迎えた。

 国土地理院の地形図に記載の分水界上の山の数は680、我々が踏査し収録した山の数は836になった。山の著名な先輩、大島亮吉氏は「道の有り難味を知っているものは、道のないところを歩いたことがあるものだけだ」と、かつて言い遺した。
道なき道も歩いてきた。みんな山が好きで山に登ってきた。苦行のなか、みんなの気持を山がつないでくれたのだ、と思う。

 踏査報告書の刊行

 A4判で約200ページの踏査報告書は2007年1月に発行の運びとなった。その中には予備調査、登撃、或いはサポートで、分水嶺を一本の線で繋いだ全ての人々の汗と喜びが、そしてパイオニア精神が詰まっている。植生や地形、黙って地中に坐す三角点、水源の滴りを自分の目の奥に納めながら、自然と向き合って来た日々、それらは到底200ページに収めきれるものではないことを承知のうえで、とにかく全支部、参加同好会すべてから寄稿いただき、報告、解説、余話、資料編、すべて会員手作りの報告書が出来上がった。提出された山行報告書は、総計1032枚。この貴重な資料は、CD‐ROMに収めて報告書に添付してある。

 ぜひとも原報告書『日本列島中央分水嶺踏査報告書』を手にとっていただきたいものである。

 報告書に、国土地理院の藤本貴也院長から祝辞を頂戴している。踏査において常に傍から放せなかったあの地形図作成のために、地理院の前身、陸地測量部の行なった測量登山がいかに大変な事業であったか、我々は今回の踏査によって及ばずながらでも知り得た。併せて心から感謝したい。

記念フォーフムの開催

 踏査事業の完了と報告書出版を機に、国土地理院の後援を得て、2007年2月17日に開催されたフォーラムには、各支部部の支部長や関係者を含め150名余の参加があった。開会に当たり平山善吉会長は、全国の会員によって、苦闘の末、無事成功裡にこの壮挙が成し遂げられ、その過程を通して山歩きの原点を再認識し、日本山岳会の会員が強い連帯感で結ばれたことは百周年の記念碑にふさわしいと喜びを述べた。

 踏査の発案者でもあり分水嶺踏査委員会の近藤善則委員から概要が報告された。踏査したチェックポイントは1832箇所、位置と保存状況を確認できた三角点は950箇所で、参加者の数は会員と非会員を合わせて1460名、延べ人数5947名、踏査延べ日数1065日、歩行延べ時間として3740時間に及んでいる。

 『新日本山岳誌』でお馴染みの小畦尚・明治大学名誉教授には地形学的な立場から分水界の定義、海外の分水界との比較、日本の一部にみられる複雑な路線などの解説をいただいた。

 国土地理院測地部長・津沢正晴氏は、今回の踏査で得られたGPSのデータは、既に測定部で今後の活用を待っていると前置きされて、最近の三角点の測量はGPSで行なっていること、このシステムの国際的展開に触れ、さらに山岳地図の作成方法、立体視地図、地上物を透視した地図など、最新の興味ある話題までも紹介された。

 そして宮崎紘一委員が本踏査で威力を発揮したGPSによる三角点計測値の分析結果として、緯度と経度では、82%が20メートルの誤差範囲に、標高では10メートル以内が90%であったと発表。更に山行前にウェイポイントを登録しておく使用法や、登山の記録として軌跡のデータを取り四次元の記録を得ることで利用価値の増すことついても言及があった。

 全国の六ブロック、首都圏の代表から踏査を振り返って語られた事柄は、完遂の達成感、仲間との間に増した連帯感、支部の活性化と支部間の交流の深まり等、まことに感激的なものであった。今回の対象外であった北海道東部や四国の山系へと、既に踏査が続けられていることからも頷ける。

 最後には、百周年事業委員会委員長の平林克敏副会長が、関係者がここ一堂に会して、事業完遂の充実感と感動を共有できて感慨無量であると述べ、「全員参加、後世に残る事業、山岳会の伝統の表現という百周年事業の基本理念を、登山と山岳文化の立場から実施したこの事業は、全会員の記憶と心の中で生き続けるものと思う」と締め括った。

  おわりに

 前記フォーラムにおける、会長、副会長の挨拶にあるように、この日本列島中央分水嶺踏査の成果は百周年事業の記念碑たり得るもの、と総括されています。私は提案に関わった科学委員会委員として、2004年から3年余りにわたって、踏査の経過と杞憂を共にし、最終報告書の編集に携わった者として、いましみじみと悦びを噛みしめています。こうした成り行きのせいでしょうか、近頃は里山の小刻みな稜線をみても、あヽあそこも分水嶺」と思ってしまう自分に気がついて、苦笑します。

 当誌『山岳』では、日本の分水嶺に特徴的と思われる事柄や、会員に連帯感をもたらした内容に重きを置いて記述しました。

今回の踏査は、未知の山中を辿るに精一杯で、自然環境や人文的な詳査までは手が届いていません。しかし行く先々の分水嶺を通じて、今後のテーマを見出した貴重な機会とも捉えられます。何百年か前に修行憎が渉覧した山中、明治時代の測量登山の環境、21世紀初頭に垣間見たこの分水界を振り返って、すべて大きな自然の営みの環の中で、変わりきて変わりゆくことを思います。

 日本の近代登山は∃ーロッパ風のアルピニズムのもとで発展してきたと言えましょうが、それ以前に、頂上を目指すというより、山を歩き、山に深く分け入って山と一体になって思索を深めてきた先人達の足跡が、かつてあったことに思い至った分水嶺踏査でありました。

 海外の未踏峰の初登頂という華々しさはなくとも、人目を引くことのない人里離れた山中で、地味な努力を重ねていた会員の晴ればれとLた気持ちは、列島全体に連なる稜線を通して長く繋がっているものと信じています。

山岳102(2007)より

分水嶺踏査は、この会の会員たちが、みな登山の原点に立ち返り、パイオニア精神を自すがらに発揮した活動そのもので
あったと言える。(石田要久)

分水嶺という境界は、地形的な水の流れを決めるだけでなく、自然界の生き物や人々との生活とも大きく係わり、日々刻々と変化していくことに気づかせてくれた。・・・まさに自然は生きていた(近藤善則)

 

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