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公益社団法人日本山岳会

アーカイブ映画会・アンデスの氷壁に挑む

2013年10月3日 夕刻 JAC104会議室にて開催 

アーカイブ映画会『アンデスの氷壁に挑む』             

この映画会は1962年に早大山岳部が遠征した登山隊に、カメラマンとして同行した近藤隆治会員の講演会の報告である。参加者は40名と盛況であった。

登山隊は、早稲田大学近藤等教授(JAC名誉会員)の登山計画に基づき、「世界で最も美しい氷雪のピーク」の一つとされているネバド・アルパマヨ(6120㍍)の第二登と、ネバド・チュルップ(5493㍍)の初登攀に挑戦した。まず映画観賞(40分)、続いて撮影者による講演が行われた。その概要を次に報告する。

近藤隆治会員談

  『登山隊のメンバーは、吉川尚郎隊長以下総勢6名で、平均年齢は25歳と若い隊である。当時は日本山岳会を窓口にしないと、外貨の割り当てが貰えなかった。遠征予算の厳しい折から、映画製作もスポンサー捜しに走り回り、某テレビ局より出来映えを見た結果可否を決めるとの話しがあったので、それを配慮して制作をする計画を練った。

  1962年5月28日、大勢の人々に見送られ、横浜港から山下汽船の貨物船で出航した。登山隊は客船客待遇で、食事の時はネクタイを着用した。毎日甲板に出てトレーニング体操や語学力向上に励んだ。船は三陸沖からカムチャッカ半島、アリューシャン列島を見ながら航行、やがてロングビーチに着いた。その後、パナマ運河を通過。運河は、海抜が内陸の湖と27㍍の落差があるため、両開きのゲイトを開閉しながら水位調整、船を両側からロープで引っ張って進んで行った。翌日、空港からリマに向かった。夜があけると飛行機の窓から真っ白なとがった峰が見えてきた。

6月23日、私はインカ帝国のクスコへ取材に出かけた。列車に乗ると混雑が激しく、大荷物の私は運転手に掛け合って、先頭に乗せてもらい撮影をした。列車を降りた時、シネカメラを置き忘れてしまったことに気づく。インディオの国は泥棒が多いと聞かされていたので真っ青になり、できないスペイン語で身振り手振り駅員に訴えた。列車が戻ってきた時、運転手がシネカメラの入った箱を持って来たのを見た時、地獄で仏に出会ったような気持ちだった。本当にラッキーであった。

クスコの太陽の神殿では、民俗衣装をまとった人々が歌い踊る。その祭りを取材するため、踊りの輪の中に入って行くと、突然カービン銃を突きつけられた。止むを得ず、その場を離れた。チチカカ湖では、葦を多数重ねて造った浮島に、やはり葦で造った家に住む先住民族を撮影したが、友好的ではなく、水をかけられてしまった。

7月6日、登山隊はリマからトラックで、ウアラスへ向かった。そこでポーター2人を雇い、馬とロバと人間からなるキャラバンがゆっくりと動き出した。遠征食料費は5万円、厳しい食料事情であった。食料担当の鏑木隊員の代表的メニューに目玉汁がある。実は何にも入っていなくて、目玉が汁にうつることからこの名がついた。
チュルップ初登攀は、西南陵と東北陵のルート工作を試みたが、いずれも難しく、大ルンゼを登り正面岩壁を登る直登ルートしかない。7月18日、吉川隊長、井口隊員2名が正面岩壁(平均斜度70度)を偵察。これが、予想以上に前進し、偵察隊から頂上攻撃隊に変わり、12時10分に2人はチュルップの頂上に立った。

7月27日、アルパマヨ挑戦のため再びウアラスへ向け、トラックで出発。半年前に、大洪水で数千人もが土砂に埋められた場所に、大きな十字架が立っていた。オロヤに着きトラックはここまで。ここで川を渡るのだが、橋は流されてない。設置してあるワイヤーロープで、人も荷物も時間をかけて渡り、アシエンダ・コルカスに向かった。アシエンダとは荘園にあたる。農場を歩いて行くと、カサ・グランデ(地主の館)に着いた。庭に入ると管理人のおばさんが出てきて、宿泊所と馬とロバを手配してくれた。手間取る賃金交渉を終え、9頭の馬と15頭のロバに荷物を摘んで出発した。

アルパマヨ谷を下り始めた時、2頭のロバが同時に150㍍程墜落した。かけ寄ってアルコールで傷口の応急手当をする。草が沢山ある場所なので、このロバはここに残し、荷物は馬に積みかえた。アルパマヨ谷を登り始める。川床の道をたどり、草地や砂と泥の湿地を通り、谷を曲がると氷河の末端が見えてきた。まもなくベースキャンプに着く時、片目の白馬が崖でスリップして、頭を岩にぶつけて首の骨をおり即死してしまった。やがて標高4300㍍にベースキャンプを設置した。

8月2日、第一キャンプへ全員で荷揚げだ。いちだんと近くなったアルパマヨは、その鋭い穂先を見せている。各自40㌔の荷物を背負うが、やけに重く感じる。高度のせいか、栄養失調のせいか。岩場を抜け、やっと第一キャンプ地に着き、テントをはり、ここで作戦会議を行なった。そしていよいよ氷河との戦いが始まった。北陵を吉川、村井、近藤の隊がめざし、南陵を井口、浜野、鏑木の隊がルート工作をする。北陵は大クレパスに進路をさえぎられ、取りつくのが難しいようだ。南陵にうまいルートが見つかったので、全力を注ぐ事にした。アルパマヨは眺める場所によって形が変わる。槍ヶ岳のように見えたり、角度が変わると美しいひだが一面に入っている。南陵直下標高5300㍍の雪原に第二キャンプを設置した。
登山隊は映画製作に来ているのではない。登山に来ているのである。従って行動は待ってくれない。映画製作者は孤独である。穂先が90度に近い斜面をセルフビレイしながら、10分毎にチェンジバック(携帯用簡易暗室)の中でフィルム交換をしなければならない。ここで代わって氷壁登攀名人の井口隊員に当時の話をして貰います。』

井口隊員談
『この第一級の困難な氷雪のピークを登るには、4日間で南陵に700㍍の固定ザイルを使い、時間をかけて安全確実に登った。垂直に近い氷雪を登るには、フィックスド・ロープにウェスト・ロープのカラビナを通し、足を持ち上げ次のピンまで行って、カラビナをつけかえる。この動作の繰り返しだ。急峻な稜線を、回り込みながら登って行った。 
8月13日、いよいよ頂上アタックの日だ。ねらいをつけていた30㍍の氷塊の基部に着いた。割れ目があって、片方の瘤を登り、少し下ってトラバースを繰り返した。最後に大きな氷塊の基部に着き、最後のかぶり気味の難しい乗越しを、鏑木隊員が健闘し、30分程かけてロープを着け乗りきった。
あと頂上まで10㍍あるだけだ。井口隊員が右に日の丸の旗をつけたピッケル、左手にスノー・バーを持ち、体を持ち上げて行く。こうして午後3時に足場をステップで作り、振り返ってピッケルを大きく左右に振る。
続いて吉川隊長がWの旗を持って登る。次に浜野隊員、村井隊員、最後に鏑木隊員と近藤カメラマンが登った。雪面に鼻をくっつけて登り、頂上は50㌢程の塊で、アルマパヨは最後までとんがっていた。』     (溝口洋三記) 

アパルマヨへの挑戦 撮影者ならではの楽しい話

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