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公益社団法人日本山岳会

越後支部80周年記念事業 新緑の万治峠を訪ねました!!!

日時 2024年4月26日(金) メンバー CL. 遠藤俊一、佐久間雅義 2名

馬取川林道391m発9:48~万治峠登山口10:18~11:08万治峠11:23~11:49実川への下山路465m(登山道崩落)11:56~13:05万治峠13:17~13:43万治峠登山口~福島県大出戸への旧道探査~14:40馬取川林道391m地点へ帰着

 万治峠は東蒲原郡阿賀町の実川集落と西会津をつなぐ峠で、万治元年(1658年)に開設された峠路である。この峠路は実川集落の産物の運搬や会津から米の搬入に重要な生活道路であった。会津藩統治下では遠い辺境の地で、権力争いに敗れた武士たちの追放の地でもあった。実川集落は16世紀末には存在していた。その実川に宝暦九年(1759年)に建てられた五十嵐家住宅が現存、国指定重要文化財に指定されている。令和4年(2022年)の豪雨により大規模な土砂崩れが発生し、この住宅は大きな被害を受けた。阿賀町役場への道路状況照会では、町道実川線は実川集落までは車で行けるが、万治峠への路は各所で土砂崩れが発生して通行不能とのこと。峠東側の馬取川荒沢集落から万治峠方面の道路も車が通れる状況ではないとの情報であった。

馬取川荒沢集落を過ぎてまもなく道路は万治峠方向と会津の大出戸集落への二股に分かれる。万治峠方向には工事中の標識があるが、車で行ける所まで行く。馬取川沿いの林道は修復されていて災害の爪痕を感じる事も無く順調に進んで行けたが、馬取川を横切る橋を過ぎた所で、急に状況は一変車が走れる状態では無くなった。標高391m地点の橋の手前にやや広い場所が有り、そこに車を置いて、峠を目指して徒歩で進む。道には所々倒木あったり、雨に洗われた深い溝があったりで、令和4年の豪雨の爪痕の凄さがそのまま残っていた。歩くこと20分で、万治峠入口の標識があり、ここから峠への山道となる。災害後入山する人も少なかったと思われるが、倒木はあるものの、峠へはしっかりと踏まれた道が続いていて順調に峠に立つことができた。

       (馬取川沿いの林道)        (万治峠から大日岳を望む)

そこには古来往来した人々を見守って来たであろうヒメコマツとアカマツの大木が存在感を示していた。アカマツの下には、河童の絵で知られた画家 小川芋銭の「わするなよ万治峠のほととぎす」の句碑が建っている。大正4年にこの地を訪れているが、句碑は1963年建立である。また、ヒメコマツの下には飯豊山と刻まれた供養塔が建っている。この飯豊山供養塔は飯豊山に登れなくなった農民の飯豊山信仰の拝所であった。この塔の背後には大日岳の大きな山容が望まれる。銘文に嘉永上章閹茂壮日(1850年)造立とある。供養塔は福島県で104基、山形県で81基、新潟県で24基確認されている。(「越後における飯豊山信仰」本望英紀著より)

(アカマツの根元にある芋銭の句碑)      (ヒメコマツの根元にある供養塔)

峠から実川への道が豪雨の影響でどうなっているか確認のため急な坂道を下る。途中、20分ほど下った平らな場所に近年建てられたと思われる東屋があり、さらに10分ほど下った標高466m地点で沢が大きく崩落していた。豪雨による生々しい崩壊現場であった。阿賀町役場によると沢筋でいくつも崩落している箇所があるとのことであった。

我々はこの崩落現場を確認して、先に進むことを断念して峠へ引き返した。

行く際には気づかなかったが、峠のすぐ下に、往来の人々の安全を見守っているかのように小さなお地蔵さんが安置されていた。青銅の小さな立て札があったが文字は読み取れなかった。峠から馬取川へ下って、白神峠を経て高森、大出戸峠を経て西会津への峠道の確認へと向かった。地図上にはその道が記載されているが、GPSで辿ってみたが、全く藪でかつて往来があった痕跡すら見いだせなかった。昨年大出戸集落での聞き取りによれば、今は通行する人もなく藪で覆われていて、熊が出没するとのことであった。残念ではあるが、馬取川から白神峠を越えて西会津への峠道の踏査は断念することにした。車を残置した場所へ引き返して万治峠踏査を終えた。        

                             (遠藤俊一 記)

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