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公益社団法人日本山岳会

2024.11.28 山城クラブ(6)「砕導(さいち)山城」(妙見山)、(高浜城)

2024.11.28(木)天候晴れ

参加者;森田(L)、浜野。曽我、亀田

コースタイム:8:00HHF駐車場⇒10:15~10:25佐伎治(さきち)神社駐車場⇒10:35天王山曲輪⇒10:50千丈ヶ嶽曲輪⇒11:05愛宕宮曲輪⇒11:10~11:15妙見宮曲輪⇒11:20佐伎治曲輪⇒11:30大岩⇒11:40佐伎治神社⇒11;45駐車場

砕導山城は若狭高浜駅の背後にある「妙見山」142mのほぼ全域を丸ごと城とした巨大な城郭を誇り、若狭最大といわれている。周囲はほぼ平坦で住居や耕作地である。山中には5か所の曲輪があり、主郭は千丈ヶ嶽曲輪で、深い堀切と切岸で守られています。斜面につけられた階段が急で、ロープも結構あります。また海岸に近いので愛宕宮曲輪と妙見宮曲輪の上からの眺望が開けています。西側に和田海水浴場を隔てて青葉山のピラミッドが見事で、北の若狭湾方面は結構荒れた海でしたが、高浜漁港の東側には半島状に突き出た陸地の中ほどに明鏡洞、その左には高浜城の森がよく見えました。

下へ降りてから、巨大な大岩も見学し、続いて高浜町郷土資料館へ向かい、砕導山城の城主逸見氏について学びました。

逸見氏は清和源氏につながる武田一族で、武田家に重臣として仕えてきました。武田氏が若狭国の守護大名として小浜に居城を構えた時から、高浜地方を与えられ支配していました。逸見貞長がその初代とされ、1522年砕導山城を築きました。3代目の逸見昌経は武田家の家督争いとそれにつながる室町幕府の内部抗争に巻き込まれ、1561年武田朝倉連合軍に敗れ、城は落城したようです。しかしその後朝倉が織田信長に滅ぼされると、丹羽長秀の若狭支配の傘下で復活しましたがその後病没したそうです。かなり複雑な経緯です。

その後、高浜漁港のレストラン「うみから」で昼食、明鏡洞、高浜城を見学し帰路につきました。【森田記&撮影】

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