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公益社団法人日本山岳会

蘭花譜 木版画

『蘭 花 譜』 らんかふ 解説

 『蘭花譜』は、加賀正太郎(1888〜1954)が自ら育成した蘭の花の美しさを、浮世絵の技法をもって木版画で再現したもので、1946(昭和21)年、第1輯として300部を自費で制作した。日本山岳会に保管されている『蘭花譜』は、その初摺りのセットで、加賀正太郎の遺言により、1954(昭和29)年、遺族から寄贈されたものである。池田瑞月の下絵の木版画(日本画)82点、下絵作者不明(資料No.12)の木版画(日本画)1点、池田瑞月の日本画の印刷5点、中村清太郎の油彩の印刷9点、岡村東洋の写真の印刷7点、計104点のセットであるが、木版画7点が欠けている。そうした散逸を避けるために、当初は製本した形での計画だったが、戦中から敗戦直後という極端な物資不足の時代とあって、それは不可能になり、バラで木箱入りという形となった。

 加賀正太郎の蘭栽培は、1914(大正3)年大山崎山荘で始まり、初めは英国産または英国経由の輸入品だったが、やがてブラジル、コロンビア、フィリッピン、インドネシア等から原種を輸入するようになった。その栽培のために新宿御苑の園丁・後藤兼吉を呼んだ。加賀は「後藤兼吉は実に稀に見る蘭栽培の天才である。真に蘭と言語を通じ得る感さえある」と、後藤の栽培技術に全幅の信頼を寄せた。大山崎山荘での蘭栽培は、人工交配1,140種、鉢数1万近くにのぼった。

 加賀正太郎がさら情熱を傾けたのは、自ら作出した蘭の美しさを記録に残すことだった。当時、最も技術的にレベルの高い印刷会社に印刷させてみたが、満足できるものではなかった。そこで着目したのが、浮世絵の技法をもって木版画で再現する方法で、そのために自分の目にかなう最高のレベルを追求した。下絵は日本画家・池田瑞月、彫刻は東京の大倉半兵衛、摺りは京都の大岩雅泉堂だった。「(資料No.1の)Vanda sanderiana(バンダ・サンデリアナ)のごときは、精細にして大作なる点において、古来の浮世絵中実に稀有のものであろう。大倉老なくんば今後これほどの木版画としての大作は不可能に近いだろう」と、彫師・大倉半兵衛の仕事ぶりを称えた。紙は「天王山大山崎山荘」の透かしの入った、特注の本場奉書、すなわち越前奉書紙を使った。越前奉書紙は300回にも及ぶ版の摺りに耐え、紙の伸縮によるズレもない強さに特質がある。

 大山崎山荘は、加賀正太郎が京都府乙訓郡大山崎村天王山に一大庭園と山荘を自ら設計したもので、洋蘭栽培のためにボイラーを備えた温室をも建てた。現在は大山崎町のアサヒビール大山崎山荘美術館となっている。

 加賀正太郎は1888(明治21)年大阪で生まれた。加賀家は江戸時代からの両替商で、明治期には両替商と株式仲買業で業績をあげたが、1900(明治33)年正太郎の父親が死去、後を継いだ叔父も間もなく死去したため、正太郎の母親は一時店を閉め、正太郎が成人するのを待って再開することとした。その資金として、夫の遺産の一部である100万円で国債を買い、日銀大阪支店に預けた。現在の価値で百数十億円である。正太郎は1911(明治44)年東京高等商業(現・一橋大学)を卒業すると大阪に帰って家業を再開、たちまち大阪での高額納税者になった。1910(明治43)年、東京高商卒業を前に、日英博覧会見学のためシベリア鉄道経由で渡欧、ロンドンへの途中でアルプスを訪れユングフラウ(4,158㍍)に登った。日本人初のアルプス登頂であり、その紀行文は「欧州アルプス越へ」として『山岳』第6年第1号に掲載されて大きな反響を呼んだ。ロンドンで訪れたキュー植物園で見た洋蘭の美しさの虜になって洋蘭栽培にのめり込み、やがて『蘭花譜』となった。

 東京府立三中で同級だった中村清太郎とは生涯の山友達で、ともに東京高商へ進んだ。東京高商には日本山岳会会員の三枝守博(旧名・威之介)がいて、加賀と中村は1908(明治41)年日本山岳会に入会。加賀は会員番号151。1950年中村清太郎とともに名誉会員に推挙された。1954(昭和29)年喉頭がんのため66歳で死去した。
                               (南川金一)

蘭花譜所蔵品(全97点)

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