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公益社団法人日本山岳会

越後米沢街道十三峠 越後三峠(鷹の巣峠、榎峠、大里峠)を歩きました。

 2022(令和4年)6月12日(日)越後支部会員18名と、関川村の若手2名の20名で踏査しました。

大里峠上の地蔵堂前

        薄霧のかかった大里峠頂上の地蔵堂前で全員集合

 米沢街道は、海と米沢を結ぶ最短距離路です。街道の国境は難所の連続で武器の輸送を伴う作戦行動は不便この上ないものでした。そこで米沢城主の伊達稙宗の命で、大永元年(1521)に大里峠の開削を始めました。1539年に整備された米沢道を伊達の軍兵は越後へ攻め入りました。この道を軍用に使ったのは遥か時代も下った慶応四年(1868)の戊辰戦争でした。江戸時代は商業道路として活躍して村上藩が塩谷に津出米の倉を立て、米沢藩は小国米を新潟へ出荷するため海老江港に運びました。

商業活動は活発になりましたが、なにせ国境付近は峠の連続で、二夕重坂・中沢・鷹の巣・追分長坂・二夕口・柄目木・大里峠などは行程中の大難所でありました。この同中は水はけも悪い所も多く通行者は難渋しました。この状態を憂慮したのは下関村の大庄屋渡邉三左衛門でありました。嘉永四年(1851)に道路の改修工事を企て、資金は1137両が自弁していました。米沢方面には「上がり荷」として、塩、鉄、魚、お茶などが、越後へ「下り荷」は小国蔵米、青苧、煙草、漆、蝋燭などが運ばれました。

 朝8:30に鷹の巣峠入口から出発です。峠までの標高差は110m程で植林杉の道を行きます。

 

今回の三峠は、全長13kmでそのうち峠歩きは8.4kmになり、その他は現在の113号線の舗装道を歩きます。各々の峠の標高は、鷹の巣峠(155m)、榎峠(187m)、大里峠(478m)になります。

榎峠入口

如意輪観音像

榎峠の頂上には、如意輪観音像が藪に埋もれていたので、少し見える様に刈り払いをしました。この峠道は距離は短いですが、古道の9割が残されている峠で特に頂上から大内渕川の道は幅も広く古道らしさが感じられます。標高のわりに急坂が多く、沼側のルートは土砂崩れで荒れている場所が有ります。

 

イザベラバードが明治11年(1878年)7月11日の関川村沼に投宿しています。 彼女は梅雨時の日本を、会津街道を経て新潟で逗留して米沢街道十三峠を越え、置賜郡を見渡す場所で”東洋のアルカデイア”との言葉を発したそうです。

 

杉林の中には時々熊剥ぎが散見されます。ここらは県境の大里峠が近く熊にも良い棲み処があるようです。旧畑集落の祠の前で、”平田大六”御大の語りに聞き入りました。天気は下り坂で段々霧がでてくる気配です。

大里峠は、分水嶺で越後側は結構小さい沢が多く、牛馬は難渋したと思われます。その分飲み水には苦労しません。畑鉱山跡近くは、鉱毒の為か一部砂礫地帯が少々ありました。取れたのは銅、金で乱堀がたたりたちまち衰微してしまいました。

大里峠を越えると風景が一変します。視界が開けて見通しがよくなります。玉川口へは15:20に到着しました。大里峠手前の清水での昼飯を含めて7時間の行程でした。昔の人はどの位の時間で歩いたのか?

 玉川口へ降りると快晴の飯豊連峰が微笑みかけてくれました。

快晴の飯豊連峰

                                           記 佐久間雅義

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