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公益社団法人日本山岳会

グレートヒマラヤトラバース 第1回目概況報告

  

今回の踏査ルートのGPSトラック。
概況報告の時間及び高度はGPSポイントデータを使用。実際の高度と異なる部分もあります。

カトマンズ空港

2月29日(土)晴
成田・関空より仁川経由でカトマンズ空港へ。

3月1日(日)
関西支部カトマンズデポから装備を引き出す

観光省

カトマンズ市内の焼き肉屋

3月2日(月) 観光省でのブリーフィング
夜はカトマンズ市内の焼き肉屋でエネルギー補給

3月4日(火) 
イタハリの宿の夕食の焼きそば

 
 

3月5日(水)
カベリコーラに架かる橋の入口のネパール観光年のモニメント。
但し、新型コロナウイルスのおかげで中止となった。

3月6日(木)
タプレジュンのホテルの北側に雪山が見えた

タプレジュン出発の朝

3月7日(土)曇後雨
タプレジュン~ラリカルカ
タプレジュンの街を抜けてスケタール空港に11人で向かう。登山用品・テント・食料は別動隊で17人がタムール河沿いにグンサに直行する。2020年観光年のいろいろな催しも新型コロナウイルスのおかげで中止となり、キャラバンルートにトレッカーの姿はない。

宿の若い親子に見送られる

3月8日(日)晴
ラリカルカ~カンデバンジャン
2016年にシンブ―まで開削されていた道路が今はカンデバンジャンまで延びているという。パワコーラでは橋の工事が行われていた。2年かかるという。

宿では電灯が灯り、充電ができる

今朝の朝食もお決まりのダルバート

3月9日(月)晴
カンデバンジャン~プンペダンダ
ママンケまでの予定であったが、行程が捗らずプンペダンダ泊まりとなる。ママンケでは3度目となる名物叔父さんに逢った。前回(2016年)はトンバを飲みながら饒舌であったが今回は言葉を発することはなかった。

1984年、2016年、今年と3度目のめぐり逢いとなったママンケの好好爺(88歳)

3月10日)(火)曇後晴
プンペダンダ~シェルパガオン
観光年を当て込んだか、シェルパガオンのロッジは増築され綺麗になっている。しかしもう2件のキャンセルがあったと嘆いていた。
下の村までは自動車道路がカベリコーラ沿いに延びていたが、雨季は使えないという。

残雪のラシアバンジャンではテントを張った 

3月11日(水)曇時々晴
シェルパガオン~ラシアバンジャン
今年最初のトレッキングパーティーとあって、上部のロッジの人たちと一緒に出発する。
標高差1300mの急登が続く。3160m付近から雪が出てきた。また、携帯が通じなくなった。

崩壊地の上端からはフィックスロープを張って下ったトロンディンの夕方、松田さんの傷ついた足の治療をする

3月12日(木)晴
ラシアバンジャン~トロンディン
宿泊地から大崩壊地の縁を最高点まで登る。残雪が多いのでフィックスを張って下降する。1884年以来随分と崩壊が進んでいる。降り立ったトロンディンのロッジは増改築がされて綺麗になっていた。しかしお客は皆無である。

自然の驚異! ツェラム手前の岩窟の天井を這う白蛇2匹

3月13日(金)曇時々晴
トロンディン~ツェラム
川沿いの道を進む。石楠花林もまだ蕾は固い。ツェラムのロッジも我々が去ると次のお客が来るまで閉めるという。女性経営者も今年は頭が痛い。

ツェラム夕景、後ろの山並みの彼方はシッキム

3月14日(土)曇後雪
ツェラム
昨夕雪が降ったので予定を変更して休養日とした。しかし、天気は終日良くなくお決まりの洗濯もできない。

ラムゼーのキャンプ地俯瞰

ラムゼーのロッジは開いておらず、テントを張った

3月15日(日)晴時々曇
ツェラム~ラムゼー
荷上げの後、シェルパとポーターはツェラムに下山。夜は我々3人だけのテント泊となる。
夕方水が凍った。ラーメンとコーヒーの質素な夕食を食べて、早々にシュラフに潜り込む。

ラムゼーの星空

カンチェンジュンガ連山(右から南峰・中央峰・主峰・ヤルンカン)

3月16日(月)晴
ラムゼー~ツェラム
朝方起きると満天の星空であった。朝日がテントに届いてからゆっくりと朝食を摂り、カンチェンジュンガ展望地に向けて出発。展望地で記念写真。1984年の縦走コースを目で追う。2016年、昨年11月(シッキム側)に続いて(最近=トル)2回目の接近である。と言っても15kmくらい離れているが。
迎えのポーターたちと合流しツェラムに戻った。
ツェラムには、朝4時にセレレキャンプを出発したナイケとポーター6名が到着していた。途中は胸までのラッセルだったという。

雪のミルギン・ラを越える

23時前やっとセレレキャンプに到着した

3月17日(火)晴
ツェラム~グンサ
朝6時にツェラムを出発。標高差1000mの急登に喘ぐ。振り返るとカブルー・ラトンの国境線の向うにシッキム側のパンディムが顔を出した。それにしても残雪が多い。ポーターの前日のラッセルはあったが、セレレキャンプに到着したのは23時前であった。17時間のアルバイトだった。

水力発電所の導水管の先にグンサの村が見えた

3月18日(水)曇時々晴
8時にセレレキャンプを出発。トラバース道の南東面の雪は融けていたが、それでも途中の沢には雪が詰まり、結局残雪がなくなったのは、グンサへの台地に降り立った時であった。

地震後にランタンから働きに来たという若い女性

3月19日(木)曇時々晴
グンサ 
休養日
終日、カンチェンジュンガ北面BCへの準備をする。

カンバチェンには今年の観光年を当て込んで新しいロッジが出来ていた

3月20日 (金)曇・小雪
グンサ~カンバチェン
8:08~15:43
3415m~4082m
朝起きるとグンサの村は真っ白だった。ヤクも干し草を食べている。昔はランブクカルカから昔は右岸の道を辿ったようだが大崩落で今は左岸を行く。それでも崩落地の道は細い。カンバチェンには新しいロッジができていた。

ローナクのヤク糞ストーブは思いのほか暖かい

3月21日 (土)晴・薄曇
カンバチェン~ローナク
7:43~14:01
4084m~4761m
谷間は陽が当たるのが遅い。トゥクパ(煮込みうどん)を食べて出発。右岸の崩落地の下端を進む。2つの大滝を過ぎると小屋のあるラムタン。ラムタンにも新しいいロッジができていた。

パンペマ(カンチェンジュンガ北面BC)にて、ここからGHTスタート

3月22日(日)晴後曇後小雪
ローナク~パンペマ(カンチェンジュンガ北BC~ローナク
5:57~11:59~17:45
4719m~5135m~4711m
行程の都合でパンペマ往復としたので早立ちする。最初は平坦地だったがそのうち岩がごろごろして歩き難い。不安定な泥壁を登り平坦になった道を進む。パンペマには2軒の小屋があったが1軒は壊れていた。仰ぎ見るカンチェンジュンガ北壁には今も2名(日本山岳会青年部カンチェンジュンガ登山隊1998)の若者が眠っているのが悲しい。

カンバチェンよりクンバカルナ(ジャヌー)北壁残照

3月23日(月)雪後晴後曇後小雪
ローナク~カンバチェン
7:41~13:14
4685m~4100m
朝から雪模様である。それでも気温が上がると右岸の崩落地から落石が頻発するようになった。カンバチェンに戻るとドイツからという2人の女性トレッカーがいた。パンペマまで行くという。夕方の晴れ間にクンバカルナ北壁が赤く燃えた。

カンチェンジュンガ北BCから下山したグンサで、貫田パーティに逢った

3月24日(火)晴時々曇
カンバチェン~グンサ
7:48~14:18
4040m~3429m
往路を辿りランブック小屋で休憩。ラジオ放送で東京オリンピック・パラリンピックの延期、外出禁止や長距離バスの運行禁止などロックダウンが発令されことを知る。グンサに到着して貫田パーティに逢う。

グンサのラマ僧に登山の安全祈願をしてもらう

3月25日(水)晴時々曇
グンサ滞在
朝方、ラマ僧を呼んでプジャ(安全祈願)を受ける。久しぶりに洗濯をする。午後山羊一頭を買ったので、夕食はレバーの炒め物が出た。これから数日はたんぱく質の補給ができる。

テント生活になって日本食に変わった

3月26日(木)晴後曇
グンサ~ナンゴ―キャンプ
7:59~13:35
3323m~4166m
グンサコーラの橋を渡り、ナンゴー・ラへの道に入る。石楠花林の中の急登で高度を稼ぐが、まだ花の蕾は固い。ナンゴ―キャンプには新しい小屋とトイレが出来ており、水も引かれていた。

雪のナンゴー・ラ、遠くにナンガマリが見える

3月27日(金)晴後曇
ナンゴ―キャンプ~ナンゴー・ラ~ストーンハット
7:46~10:23(ナンゴー・ラ)~15:08
4105m~4762m~4391m
雪のナンゴー・ラをスムーズに越えるために、グンサで5頭のヤクを雇ったが深い残雪のため峠からヤクが帰ってしまった。残った荷物はポーターが往復してストーン・ハットに下した。

ヤンマコーラに向かう橋のたもとで、春の兆しを感じた

3月28日(土)晴
ストーンハット~ヤンマコーラ~ヤンマコーラ上
7:40~14:22~15:52
4348m~3375m~3504m
深い雪で判りにくい道をヤンマコーラに向けて降りる。途中のランジョンカルカにも新しい小屋が建っていた。小屋の手前から残雪が無くなったが、石楠花林の中のトラバース道は長い。降り立ったヤンマコーラには石楠花の蕾が赤く膨らんでいた。

ヤンマ村集落下のグランドにテントを張る

3月29日(日)晴後曇
ヤンマコーラ上~ヤンマ
7:47~17:48
3476m~4158m
ヤンマコーラ沿いの道を北上。峠からジョリタール下る途中でヤクの一行に逢った。ヤンマからオランチュンゴーラを往復するという。ヌプ(民家なし)で泊まる予定であったがポーターの都合でヤンマに向かう。大チョルテンの向こうに懐かし(2016年以来)のヤンマ集落がひっそりとたたずんでいた。

2016年にお世話になった、ヤンマ村の村長宅を訪問

3月30日(月)晴時々曇
ヤンマ滞在
この日、ラムカジ(サーダー)とラクパ(ポーター頭)はパブクタールの偵察に出かけた。風が強く予定のチェチェポカリにテントは張れないという。ヤンマのキャンプ地のキッチンテントとダイニングテントも風で飛ばされた。これからに備えてカメラなどの電池の充電をおこなう。

3月31日(火)晴後曇後小雪
ヤンマ~パブクタールBC
7:46~15:21
4104m~4666m
ヤンマの台地からパブクコーラ沿いの道に入ると風が強くなった。ナンガマポカリから流出する川の橋を渡り、ツェツェポカリの左岸に入るとさらに冷たい風が強くなった。BCはパブクタール手前の大岩に囲まれた平坦地とした。

ベースキャンプ開き

4月1日(水)晴後曇後小雪
パブクタールBC
ベースキャンプ開きをおこなう。昼過ぎより雪となった。

一晩で冬に戻ったベースキャンプ

4月2日(木)晴後曇
パブクタールBC
今日も昼過ぎから小雪がちらつき始め、21時頃まで降り続いた。

ナンガマリ(右Ⅱ峰・左主峰)を横目にC1へ向かう

4月3日(金)晴
パブクタールBC~C1
7:58~13:30
4658m~5197m
松田隊員の見送りを受けC1に向けて出発するが、ガン・ラに向かうルートは雪に隠れている。しばらくしてチェンジャムポカリに向かっていることが判り軌道修正。大きく東へ回り込みナンガマリ西面を右手に見ながら北上してテントサイトを見つけC1とした。

パブクカン(6244m)を目指してABCに向かう

4月4日(土)晴後曇後雪
C1~ABC
8:14~14:15
5197m~5526m
BCからのポーターを待たずにABC適地に向けて先行する。相変わらずルートは判り難い。
その後BCを出発したサーダーとポーターに追いつかれた。ポーターが明るいうちにBCに帰れる地点をABCとした。

深い雪をかき分けながら頂上へのルートを探す

4月5日(日)晴後曇
ABC~デポ地~最終到達点~ABC
7:01~12:00~12:32~15:23
5496m~5753m~5798m~5526m
ABCの左手岩壁帯の中にガン・ラへのヤク道があるはずであるが、見つけ出すことが出来ない。一縷の望みを抱いて、岩壁帯の裾をトラバースし氷河の切れ目から左のミックス壁を登り上部プラトーに出た。ガン・ラと思しき所は遥か左前方(西側)にあり、P6100からパブクカンに続く稜線も鋭い。さらに雪原を東に進み2つのピークを経由しないで直接パブクカンの頂上に向かうルートを確認して下山した。

最終アタックで行く手を急峻な岩壁と懸垂氷河に阻まれ登頂断念

4月6日(月)晴後小雪
ABC~デポ地~最高到達点往復~ABC
1:40~5:04~9:50~14:34
5475m~5766m~5920m~5502m
暗いうちにABCを出発し登攀装備のデポ地に到着した。さらに昨日の最高点まで行ったがラッセル深くなかなか進まない。頂上に向かう平坦地を過ぎて急登となり2P(100m)フィックスロープを張ったが、その上を確認すると鋭く急な岩壁帯と懸垂氷河が往く手を遮っている。まだ頂上まで890m前後あり、距離・時間から勘案しても頂上への到達は無理と判断して下山にかかる。

ABCを去る日、後方はパブクカン全景、頂上は遠かった

4月7日(火)晴後曇後雪
ABC~パブクタールBC
8:04~15:24
5434m~4678m
朝食後テントの乾燥、荷物の整理をして下山にかかる。2日間の間に残雪も随分と少なくなり、ルートを示すケルンも見え始めた。未踏のネパール・中国国境線上の山々に別れを告げBCへ下った。祭壇に無事下山の感謝をして今回の登山を終えた。

BCを離れる日

4月8日(水)晴後曇後雪
パブクタールBC~ヤンマ
8:30~14:04
4587m~4162m
登ってきた時よりは随分と暖かさを感じるようになった。チェチェポカリの北端の氷も融け始めていたが、湖面を吹き抜ける風は冷たく、湖面の氷はまだ人が歩けるほど厚い。もう来ることもないだろうヤンマの集落を一周してキャンプサイトに下った。

ヤンマ村からヤンマコーラに下る日、遅い春の訪れを実感

4月9日(木)晴後雪
ヤンマ~ヤンマコーラ上
8:07~16:12
4136m~3520m
昨夜は雷が鳴り、テントの周りを除雪するほどの降雪があった。朝日に輝く新雪を踏んでヤンマコーラ沿いの道を下る。ダライ・ラマ13世の亡命伝説のあるジョリタールで昼食。夕方からまた雪が降り始める。

オランチュンゴーラ村の入口

オランチュンゴーラ村の主要産業絨毯作り

中国製のプロパンガスコンロが使われていた

石楠花とシャーベット状の雪

4月10日(金)晴
ヤンマコーラ上~オランチュンゴーラ
7:22~16:31
3429m~3186m
昨夜の雪で周辺は白銀の世界。下るにつれて太陽も顔を出し石楠花の花の上に積もった雪も融け始めた。昼からは急崖に付けられた階段の登り下りとなり緊張する。ヤンマコーラ沿いの道を外れてタモールナディの谷沿いの道に入ったが、粗削りな道路に出逢い驚く。古い道は寸断され、石楠花の大木が重機で押しつぶされ見るも無残である。
オランチュンゴーラは古い大きな村であったが、村の中心にはコンクリートの歩道が施設され、なんとなく豊かさを感じさせる。聞けば1812(大正元)に青木文教が西蔵入りで越えたティプタ・ラから自動車道が通じ(2017年)、多くの生活用品が中国から入ってきていた。宿の娘たちもなんとなく垢抜けている。

中国国境(ティプタ・ラ)から延びる自動車道

4月11日(土)晴後曇後雨
オランチュンゴーラ~イラダンダ
7:58~18:34
3153m~2053m
オランチュンゴーラから自動車道を下る。驚いたことに道路は川を横切りさらに南下していた。重機で押し潰された道は歩き難いがスピードは出る。ラムシャンコーラを渡ると道路が途切れて地道となった。アップダウンの激しさに疲れ切ってイラダンダに着いた。長い1日であった。

ネパール側もオランチュンゴーラに向けて開削作業が始まっていた

4月12日(日)晴
イラダンダ~レレップ
8:07~13:19
2021m~1709m
昨夜の宿を出発するとしばらくは平坦な道が続き、道の両側には青々と育った大麦が風に揺れている。しばらくすると眼前に開削中の道路が現れた。北に向けてさらに進むのか2台の重機が遠くに見えた。そこからレレップへの道は石の階段を大きく下りイラダンダに着いた。すぐに警察署に行きタプレジュンへの通行許可の申請をするが、電話の中継基地が昨日の雷で破壊されタプレジュンの幹部と連絡が取れないという。それでもタプレジュンからの車の手配にはOKを貰いほっとする。
車の目途がついたのでポーターを解雇、賃金とチップを払った。彼らは夜通し歩いてタプレジュンまで帰るという。

ビクラム暦の新年を祝うポーターたち

4月13日(月)晴後曇
レレップ
宿の2階に陣取っている役場の職員に車の手配を依頼。夕方、宿の食堂に村の人たちが集まり始めた。そのうち「Happy New Year」と乾杯の声。聞けば今日がビクラム暦での正月と言う。興が乗るとポーターたちが踊り始めた。

夕食にフライドライスが出た

4月14日(火)晴後曇後雨
レレップ
陽が出てるうちにと装備の乾燥と仕分けをおこなう。夕方、タプレジュンから4駆が到着した。

レレップより悪路をタプレジュンに向かう

4月15日(水)晴
レレップ(車)タプレジュン
7:16~12:47
1750m~1751m
4駆に隊員とサーダー・カトマンズポーター(3名)と個人装備を載せて出発。ほかの装備はナイケ(ポーター頭)と共にトラクターで運ぶことになった。タプレジュンからレレップまでは日常的に4駆やトラクター・重機は走っているとはいえ腸捻転をおこすようなオフロードである。途中の急坂で、先にセカトムを出発していた貫田パーティに追いつく。タプレジュンでは宿を探すのに苦労したが運よく営業していたリゾートホテルに落ち着く。やっとWi-Fiが使えるようになったので、在ネパール日本大使館の安全情報20-18を確認、下山とカトマンズまでの通行許可の弁をネパール観光庁に図ってもらうよう要請した。

苦楽を共にしたポーターたちに支払いをおこなう

4月16日(木)雨降ったり止んだり
タプレジュン
日本大使館の連絡で、通行許可にはネパール出国の国際線の予約が必要との連絡を受け、在カトマンズ及び日本のエージェントに依頼。入手した予約を連絡。15時前にやっと大使館からのレターを入手、ホテル近くの観光庁の出先機関に出向くが、許可は出なかった。

通行許可証を取得して慌ただしくカトマンズへ向かう

4月17日(金)晴
タプレジュン(車)イラム
15:10~21:07
1820m~1300m
今日もダメかとあきらめていた午後2時、突然出先機関に出向くようにと連絡があり全員で向かう。役場にはスケタールに滞在していた貫田パーティも来ていた。待つこと30分
役場の責任者が現れ、カトマンズへの通行を許可する70回前後の検問を覚悟するようにという通達があった。ホテルに帰りイラムへ向けて2台の4駆で走るが、この日はイラムまでしか行けなかった。それでも12回の検問と1回の検温があった。

タプレジュンからカトマンズまで、63回の検問があった

ロックダウンで車や人影の無いカトマンズ市内を走る

4月18日(土)晴
イラム(車)カトマンズ
3:00~17:50
1300m~1300m
4時間ほどの仮眠で再び車に」戻る。それにしても検問が多い。4~5分で検問というのも何回かあった。それでも走り続けて夕方カトマンズに到着した。4駆の運転手はタフである。15時間近く走り続け(食事は途中の店でビスケット・ジュース・水などを購入)51回(合計63回の検問)の検問に耐えたばかりか、明日中にはタプレジュンに帰らなければならないという。我々にとっても長い1日が終わった。

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