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公益社団法人日本山岳会

ステロイドが高所脳浮腫に著効を示した一例 737号

ステロイドが高所脳浮腫に著効を示した一例

上小牧憲寛

 2006年5月17日、栃木ヒマラヤ研究会のメンバー4人がエヴェレストに登頂しました。しかし、45歳のサーダーが最終キャンプ(C3)まで自力下山できませんでした。彼は翌日の夜明け前、他隊に発見され、C3に降ろされました。ふらふらと立ち上がりましたがよろめいて歩けなかったため、18日のうちにC2,C1を通り越して前進ベースキャンプ(ABC)まで降ろされました。19日朝、ABCで私が診察しましたが、呼吸音は正常で動脈血酸素飽和度(SpO2)が71%あり、高所肺水腫ではなく高所脳浮腫が疑われました。高所脳浮腫にはステロイドであるデキサメサゾンが特効薬ですが、私は日本に置き忘れてきてしまい、まだ手元に届いていませんでした。もう自分では立つこともできなくなっており、その日のうちにベースキャンプ(BC)に降ろされました。そこでなんとデキサメサゾンがコックのテントの中に放置されていたことが判明しました。しかし、注射器と針はABCに置いてきたので注射できませんでした。20日朝4時にBCを車で出発しましたが、7時に突然全身けいれんを起こしました。症候性てんかんです。けいれんが治まらぬまま、7時半にティンリに到着し、注射器と針を手に入れることができました。厚着のため前腕の皮膚をうまく露出できず、1本目のデキサメサゾン8mgを皮下注射し、2本目は静脈内注射することができました。すると約10分でけいれんが治まり、意識も回復しました。しかし、左半身は全く動かすことができませんでした。カトマンズに搬送し、撮影された頭部CTと頭部MRIで脳浮腫を示す所見がみられました。入院後、病状は劇的に回復し、10日弱で歩くことも左手を使うこともできるようになりました。
 高所脳浮腫の治療の基本は、まずできるだけ低いところへ患者を降ろすことで、可能ならば酸素や携帯式高圧バッグ(ガモウ・バッグ)を使うことが有効です。さらに、強力な副腎皮質ステロイドのデキサメサゾンは、血管新生を促進し毛細血管基底膜の透過性を増加させる血管内皮成長因子(VEGF)を抑えるために、浮腫を軽減させる効果があるとされ、有効と考えられます。今回は注射薬しか用意していませんでしたが、内服薬も持参する必要があったと反省しています。または、注射薬であっても注射器がなければ内服させても良かったでしょう。本症例でデキサメサゾンが奏功したのか、偶然だったのか、十分明らかではありませんが、竹内洋岳氏も高山病で重篤な状態だった折に、デキサメサゾンが劇的に奏功した経験を有しています。このような状態では投与が試みられるべきと考えられます。
(1)登山隊員は遺伝子で選別される?

 われわれは、経験的に高所に強いヒト、弱いヒトがいることを知っている。従来、これは“体質”の違いという曖昧な言葉で説明されてきた。しかし、最近の分子生物学の発展のおかげで、遺伝子によってこの謎解きができる可能性がでてきた。
 1998年、Montgomryらは、Nature誌に非常に興味深い発表を行った。すなわち、アンギオテンシン変換酵素(angiotensin-converting enzyme:ACE)の対立遺伝子(アレルという。染色体の相同な場所に位置し、機能的にも相同な遺伝子)が一流の登山家に優位に存在することを明らかにした。血管内皮細胞に存在するACEは、アンギオテンシンⅠを強い生理活性をもつアンギオテンⅡ(AⅡ)に変換する。この反応はおもに肺胞で起こる。AⅡは細動脈を収縮し、飲水行動や抗利尿ホルモン(AVP)、副腎皮質ホルモン(ACTH)の
分泌を促進する。
 さらに、心血管系組織をはじめとする様々な細胞の肥大・増殖、または分化・成長に関与する生理作用も明らかになってきた。ACE遺伝子は第17染色体q23にあり、大きさは、21kb(21,000塩基対)で26エキソン(遺伝子DNA中で情報をもっている部分。情報のない部分をイントロンという)からなる。イントロン16に287塩基対の挿入/欠失による制限酵素断片長多型があり、Alu様配列 (ヒトゲノム中に散在する小型-300塩基以下―の反復配列)を有するものはⅠ(insertion)アレル、持たないものはD(deletion)アレル
と呼ばれている。

 25名の一流英国男性登山家(7000m以上の高山に無酸素登山歴がある)のうがい液中からDNAを抽出し、PCR法(DNA鎖の特定L部位のみを繰り返し複製する反応で、微量のDNAを百万倍程度まで増幅できる)により測定されたACE遺伝子型は、一般英国人と比較してⅡ型の占める割合が登山家で有意に高く、逆にDD型は著しい低値を示した。特に無酸素で8000m峰の筆頂を果たした15名にはDD型が全く認められなかった。一方、Ⅱ型のほうが血清ACE活性が約半分しかないにもかかわらず、DD型と比べて運動トレーニング効果がはるかに高いこともわかっている。ID型は、いずれもⅡ型とDD型の中間を示した。

 こうして、超高所登山の際には、ACE遺伝子による隊員のスクリーニングが行われる可能性が生じてきた。DDアレル所有者にとってはショツキングなことに違いない。

 なお、ACEアレルの検査は比較的簡単に実施できる。かかりつけのドクターと相談されたい。

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